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「翔ぶが如く9 / 司馬 遼太郎」の感想・あらすじ

2024/02/01
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73点

感想

桐野が無能であることが何度も書かれていたのが印象に残った。

東上するために決起したのになぜ熊本城にこだわったのか、なぜ同じ薩摩人なのに官軍と賊軍に分かれて戦わなければならなかったのか、など西南戦争について考えさせられる内容だった。

あらすじ

地鳴

薩軍は各地に決起を促す密使を送った。
土佐では挙兵すべく準備がすすめられたが、資金難のため実現できなかった。
宮崎県では旧薩摩藩領だった飫肥(おび)の士族たちが一隊を編成し19日に出発、25日に熊本に入り川尻の警備についた。
飫肥の小倉処平は小倉を占領して熊本を背後から攻めるという戦略を薩軍に献策したが、桐野によって却下された。
他にも日向などからいくつかの隊が薩軍に加わった。

田原坂

薩軍は「熊本城を包囲しつつ、菊池川の内側にしりぞいて政府軍の侵入を防ぐ」という方針をとった。
高瀬から熊本城の途中にある田原坂は村田新八と別府晋介の軍が、吉次越は篠原国幹と熊本隊がまもった。

3月3日、高瀬の政府軍は軍を2つに分け、田原坂と吉次越に向かった。
まず田原坂付近にある木葉で政府軍と別府晋介の隊が衝突、薩軍は退却した。
吉次越付近にある立岩村でも射撃戦があったが、こちらも薩軍は退却した。

4日、政府軍は吉次越を攻撃、薩軍は政府軍を圧倒したが篠原が戦死した。
政府軍は大軍を3つに分けて田原坂を攻撃したが、惨敗が続いた。

警視隊

会津人の佐川官兵衛は川路からの要請を請け、警察志願者を率いて東京へ出た。
川路は警察を軍隊として使ったが、最初の部隊のほとんどは薩人に対する怨恨を持つ会津人だった。

警視隊と呼ばれた佐川ら五百人の警視庁ポリスは2月23日に小倉に着いたが、指揮系統が確立していなかったため転々とした後、3月6日になって熊本城に進軍せよという命令を受け取った。
18日、佐川隊は阿蘇山麓の新町から二重峠へ行き薩軍と激戦を繰り広げたが、佐川が打たれて即死し退却した。

激闘

政府軍は3月11日に総攻撃を開始した。
薩軍は各戦域で奮戦したが死傷者の補充ができなかったのに対し、政府軍は補強されつつあった。

衝背軍

薩摩出身の陸軍大佐高島鞆之助は「鹿児島県士族と戦うときは正面から衝突するのではなく、衝背軍を儲けて側面や背後をつくべき」と山縣に説いた。
しかし、山縣の器量ではそれができず、東京の太政官たちの合議によって実現した。

太政官は島津久光が西郷に呼応することを恐れ、公家の柳原前光を久光への勅使として派遣し、黒田清隆と高島が随員として付いた。
3月10日、勅使一行は勅旨を伝え、久光は恭順した。
12日、勅使一行は錦江湾を去ったが、高島は勅使護衛の兵力を衝背軍として19日に八代に上陸した。

西北の崩れ

薩軍と政府軍は田原坂で激突、15日の横平山攻防戦で薩軍は大きな損害を受け、19日になると全軍が消耗しきっていた。
20日に政府軍が総攻撃に出ると薩軍は退却、4日から始まった田原坂の攻防は17日間で幕を閉じた。

萩原堤

募兵のために鹿児島へ帰っていた別府晋介・辺見十郎太らは、千五百人を得て3月26日に加治木の浜を出発し、29日に肥後の人吉に入った。

宮崎八郎は31日に人吉に入り、桐乃の命令により別府・辺見らと4月2日に八代に向かった。
途中で政府軍を撃破し6日に八代市街に突入したが、北方から来た政府軍の増援部隊四百人が辺見隊を横撃、宮崎八郎は撃たれて死亡した。

熊本南郊

黒田軍四千五百は薩軍を戦いながら熊本の南方から北上し宇土に入ったが、そこから戦線をひきしめて動かなくなった。
黒田と海軍総帥川村純義とで密談があり、西郷を逃すために時間を稼いでいたものと思われる。

8日、籠城50日で食料が乏しくなった熊本城から一隊が場外へ突出し敵の包囲を強行突破、南下して黒田隊の元へ辿り着いた。
12日、黒田軍は川尻を攻撃、薩軍の永山弥一郎は自刃した。

熊本を去る

13日、二本木の薩軍本営で軍議がひらかれ西郷は「もう決着はついた、陣頭に立ち最後のいくさをしたい」と言ったが諸将が反対、14日に西郷をのせた駕籠は上益城郡の木山まで退却した。
その2日後には、さらに二十五キロ東南にある矢部郷浜町に移った。

黒田は「15日に熊本に向かって進め」と各団に申し渡していたが、山川浩中佐の大隊は13日に熊本へ驀進し熊本城の包囲を解いた。

過ぎゆく春

矢部郷浜町で薩軍の軍議がひらかれ「人吉に本営を置き、機を見て中原に進出する」という方針に決まった。
22日に西郷は竹駕籠に乗り浜町を発ち、28日に人吉に着いた。
人吉での薩軍は横暴であり、兵や人夫を集めるのに「応じないものは首を刎ねる」と強圧をもってのぞんだ。

桐野は人吉の手前の江代で独断で軍議を開き、兵を八つの方面に分けることに決まった。
西郷と桐野に関係は冷え込んでいた。

山縣は熊本で軍議を開き「追尾せずに持重する」と決めたが、後年「あの方針は間違いだった。あのとき追撃すれば壊滅できたかもしれない」と述懐している。

日向へ

薩軍は人吉の平民に弾薬作りなどの労役を強制した。

5月6日、政府軍の長州人山田顕義は熊本城内の山縣を訪ね「なぜぐずぐずしているのか」とどなりつけた。
山縣は収賄事件を西郷に助けてもらったことがあり、西郷を追い詰めることに抵抗があった。

29日、西郷は人吉を発ち宮崎方面に向かった。
6月1日、人吉の市街地に政府軍が突入し4日に占拠した。
この戦いで薩軍の淵辺群平が撃たれて戦死した。

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