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「ヨコ書き学問のすすめ / 福沢 諭吉 (現代語訳:河本 敏浩)」の感想・あらすじ

2024/02/28
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85点

感想

福沢諭吉という人物の偉大さがわかる本。
明治時代に書かれた内容とは思えない、現代にでも十分に通じる内容。
「マニフェスト」という単語が出てきたことに驚いた。

「難しい仕事をする者よりも、簡単な仕事をする者の方が値打ちが低いのは当たり前のことだ。そのもとはと言えば、その人に学ぶ力があるかないかの違い、ただそれだけなんだ」

優れた人とデキの悪い人の違い

世の中には頭を使う難しい仕事と、肉体だけを使う単純な仕事がある。難しい仕事をする者の値打ちが高く、簡単な仕事をする者の値打ちが低いのは当たり前のことだ。だから、優れた人間になるためには、君は大きな意味で頭を使わなければダメだ。

優れた人間は豊かになっていき、単純な仕事に就いている者からすれば、手の届かないものに見えるだろう。でも、そのもとはと言えば、その人に学ぶ力があるかないかの違い、ただそれだけなんだ。運命なんか、まったく関係ないんだ。

よく学び、よく物事を知る者のみが値打ちのある人材で、学ぼうとしない者が貧しい生活に落ち地を這う生き方をするのは、人生においては当然のことなんだ。
だから、進んで学ぶのは当然のこと。自分の足で人生を歩むためには、絶対に必要なものなんだ。

外国語

もしできるならば、もうひとつだけ取り組んでほしいことがある。
それは外国語だ。

愚民のうえに暴政あり

西洋のことわざに「愚民のうえに暴政あり」とあるように、愚か者が集まれば、それに合わせてひどい政府ができ上がる。まさに、愚か者が招く自業自得の災いだ。

愚か者の上にひどい政府があるならば、良民の上に賢い政府があるのは当然のことだ。人々が学問を志し、物事の「筋道」を知り、新たなる道を切り開いていくならば、政治家も人に優しい政治を行うはずだ。

学ばない者

私のこの声が届かない者がたくさんいる。それは、学ばない者たちだ。

学ばない者たちは、物事の筋道を介さず、考えているのは飲み食いと寝ることだけ。そのくせ欲は深く、すぐに人を欺き、政府の法からうまく逃れ、義務を果たすことなく生きている。この学ぶ意欲を持たぬバカ者を取り扱うには、理屈ではとても無理だ。極めて不本意だが政府が力をもって威(おど)し、一時的な害悪を鎮めるよりほかに方法がないと私は思っている。

君はわかるだろうか?これが、この世界に暴君が現れる理由なんだ。これは旧幕府だけでなく、アジア全体にも当てはまることだ。だから一国の暴政は、必ずしも暴君や無能な役人の責任ばかりとは言えない。国民が、その無知によって災いを招いているんだ。

自立せよ

国の文明度を、学校・軍隊・工業などで測ることをやめるようにすすめたい。
形あるものはお金で買えるが、お金で買えないものこそを大切に思わないといけない。

では、お金で買えないものとは何だと君は思う?
そう、それこそ自立の精神、自立にかける意気込みなんだ。

政府と民衆

日本は1000年以上前から政府が権力を一手に握り、国民は政府に命じられるままに動くのみだった。深い愛国心など持たず、気力をふりしぼって事に当たるという機会を持たない。こういった気風が、全国に蔓延していた。

足利・徳川の政府は民を管理することに「力」を用いたから、人々は政府に服従した。対抗する力が足りなかったからだ。ただ力ずくで支配されているだけだから、人々は心から服従していたわけではなかったんだ。

そして、今の政府は「力」だけでなく「知恵」もあるため、民衆は「国を思うのは上の仕事で、私のような下々の関するところではない。政府の言うことに従おう」と言う。

君はわかるだろうか?
政府が国民の心を奪ってしまったことを。昔の政府は民衆の力を奪い、今の政府はその心を奪うと言ってもいい。要するに昔の政府は民衆の外側を支配し、今の政府は内面を支配しているんだ。よって、昔の民衆は政府を鬼とばかりに恐れ、今の民は政府を神のように拝む。これが続けば、国民は気力を失い、文明の精神を失ってしまうだろう。

国民は国家の株主であり、社員でもある

およそ国民には、ひとりで2つの役割がある。
そのひとつは政府の下に立ち、その傘の下で生きていく立場。
もうひとつは、国をひとつの会社と見立てて、その会社の運営に当たる当事者という立場だ。

たとえば、君を含めて100人でお金を出し合って会社を設立し、相談のうえで規則を決め、これを実行したとしよう。100人全員がこの会社の株主であると同時に、全員が定められた規則に従わねばならないので、その意味では社員の立場であるとも言える。

国も会社も組織としては同じようなもので、先の100人が会社の社員でもあり、同時に株主であるのと同様に、国民も異なる2つの役割を同時に担っているんだ。

国民を一社員と考えるならば、国民は、組織の人間が自らの組織の規則を守るように、自国の法律を尊重し、誰もが平等であるという精神を有していなければならない。

納税

君は必要な費用を税として払うことに、不平をいってはならない。
国は、役人の給料、陸海軍の軍事費、裁判所の費用、地方公務員の人件費などを賄わなければならない。
その額を総計すると莫大な金額に思えるが、国民ひとりあたりの金額は1円か2円ぐらいのものだ。
1年にその程度の税金を払うだけで、盗賊の心配もなく安心して外出できるような生活が手に入るならば、それは大いに結構なことではないか。

世の中にお買い得と言えるものは数あるが、税金を払って政府の保護を得ることほど、お買い得なものはないと私は思う。
意味のない支出ならば1銭も払いたくないのが道理だけれど、税は義務として払っていると考えるのではなく、支払った額に対する見返りが大きいものとしてとらえるべきなんだ。
悩むことなく気持ち良く君は税を払うべきなんだ。

男と女の関係

ひとりの夫に多くの妻が群がっている大奥のような状態は、人間お正常な状態とは言えないと、君は思はないか?
たとえその家が立派にそびえる御殿であろうとも、私から見れば、そのような家は家畜小屋同然だ。
大奥のように妻と愛人が同居して家庭内がうまくいったという例など、私は聞いたことがない。
ましてや愛人といっても同じ人の子である。
それを一時の欲望のために物のようにい扱い、家庭を乱して子供の教育を劣化させ、災いを天下に流すようなことをするのは、まさに罪人の所業だと私は思う。

孟子のデタラメ

こういう言いわけもある。
「愛人を囲うのは、子孫を絶やさないためである。孟子の教えに、3つの親不孝があり、その中でも最も大きな親不孝が、子供が生まれないということである」と。
これもまた道理に反する考えだ。
天の道理に外れたことを言う者ならば、孟子であろうが孔子であろうが、君は遠慮なく罪人と断じてよい。
妻として迎え、子供ができなかったからといって、それがなぜ大きな親不孝なのか。
こんな意見は、言いわけとしてすら成り立っていないではないか。
少なくとも人の心を持つ者であれば、誰が孟子のデタラメを信じるだろうか。

生き様を考える

世の中には、アリのように働くだけで満足している者もいる。
人は社会にでて就職すると、家族・友人の援助から独立して、一家をなすことになる。

相応のものを着て、相応のものを食べ、他人への義理も欠かさず、自前の家を建て、家具や家電をそろえながら結婚を考え、やがて望み通り妻を迎え、倹約を守り、たいした金はかけないとしても子供には人並みの教育を受けさせ、不測の出費に備えてある程度の金を貯める。
これだけのことができれば、どうにか末永く平穏無事に暮らせるだろうと満足する。

これが典型的な一人前とされる者の生活だ。
世間の人もこの様を見て、自立した大人だと言うだろう。
あたかも立派な仕事をなしえたかのように評価する。
だが、私はこの評価は間違っていると言いたい。

社会に貢献する生き様

これほどの生活を実現した人は「充分にがんばった」と評価されるだろうが、君はこれだけで立派な人間だと思ってはいけない。
なぜなら、このような生活を子孫まで続けたとしても、何百年の歳月を経ても、社会はまったく変わらないからだ。
社会の利益になるような大きな事業は起こらず、船も橋も造られることはなく、誰もが自分とその家族以外には関心を持たない者たちばかりになってしまうだろう。その土地に生まれた跡、その土地に生きた自分の人生の跡を、誰も残すことはない。

西洋に「世の中の人すべてが、自分のことだけで満足し、その小さな満足に安住してしまうならば、今日の世界は、天地創造の時と何ら変わるものではないだろう」という言葉がある。

私は、本当にその通りだと思う。

学問と行動の矛盾

人間の見識・行動は、知識や見聞がたくさんあるだけでは高尚とは言えない。
万巻の本を読み、多くの人とつき合い、それでいて確固たる自分の意見を持たない人も世間にはいる。
古い習慣を頑固に守る儒学者などが、いい例だ。

彼らは学問に熱中するが、自分の生活となると、経済学を学びながら家計のやりくりもできず、倫理学を習いながら自分の道徳心を養うこともできていない。
この学問と行動との矛盾は、ひとりの人間の中に2人の人物がいるようで、見識ある人物とはとても思えない。

要するに、今の若者は、講義で聞いたことや教科書で見たことを「違う!」と否定しない日々を営んでいるにすぎない。
「こういうことだ」と頭で納得することと、納得したうえで実生活の場で学んだことを実践するのは別物であることに気づくべきだ。
「医者の不養生」とか「論語読みの論語知らず」といったことわざが生まれるのも、こうした理由からだろう。
つまり、人間の見識・品行は、深遠な理論を語ったり、単に見聞を広くしたりするだけで高尚になるわけではないということだ。

高き志を持て

では、君が見識・品行を高く保つには、どうすればいいのか?
その秘訣は物事をよく比較し、より高い段階を目指して、決して安易に満足しないことに尽きる。
たとえば、君が酒や女に溺れることなく、懸命に勉強すれば、父兄や年長者に怒られることなどなく、得意になったりもするだろう。
しかしそれが、ほかの怠けている学生と比較しただけのことで、単なる自己満足にすぎない。

懸命に勉強するのは人間として当然のことで、賞賛に値するものではない。
君の人生の目標は、もっと高遠なものであるべきだ。

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