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「翔ぶが如く10 / 司馬 遼太郎」の感想・あらすじ

2023/10/26
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69点

感想

最終巻だが、作品全体として自分には難しくてあまり面白くなかった。

以下のことが印象に残った。

  • 桐野は無能だった。
  • 薩軍は戦略が何もなく、何ために熊本城を攻め、何のために鹿児島へ戻ったのか、意図がわからなかった。
  • 木戸、西郷、桐野、村田、別府、辺見、大久保、川路、全員死んでしまった。

あらすじ

西郷の日々

明治10年5月半ば、桐野は宮崎に入り兵員と金穀を徴発した。
夜になると桐野は遊郭でしばしば豪遊した。

西郷は31日に宮崎に入り、その後60日間滞在した。

桐野の戦略は薩摩・大隈・日向を守ることであったが、何のために三州を防御するのかは不明であり、桐野の無能さの一端が露呈された。

野村忍介は「全軍で豊後を制圧し山陽道や四国に進出するべき」と主張したが、桐野は了承せず野村の一隊だけが豊後に突出した。
野村隊は13日に竹田城下に入り、竹田士族を強制的に徴兵した。
政府軍は四千の兵を豊後に派遣、20日に竹田で攻防戦が始まり29日に薩軍は潰走した。 31日以降は薩軍が盛り返し、豊後での戦いは1ヶ月以上続いた。

政府軍は別働隊として八代から鹿児島県の大口に兵を進めていたが、その旅団司令長官は私学校生が最も憎んでいた川路利良であった。
大口の防衛にあたった薩摩の辺見十郎太軍は、当初は連戦連勝を重ねたが、援軍が加わった政府軍が6月20日に大口を占拠、辺見軍は7月に日向へ退却した。

夏めく

大口を占領した川路は職を解かれ元の大警視に戻り、7月1日に戦場を去った。
川路と同じ薩摩出身の大山巌は薩人がいかに川路を憎んでいるかを知っており、「川路を罷免すべき」と大久保に具申したのである。

その少し前の5月26日、木戸が結核により亡くなった。

北へ

7月になると熊本と鹿児島のほぼ全域が政府軍の制圧下となり、7月中旬頃から政府軍は宮崎に兵力を集中しはじめた。

西郷は7月29日に宮崎を去り、北へ向かった。
その数日前の軍議で「鹿児島へ向かい防守する」という桐野案が採用されていたが、政府軍の近接が急だったため北へ向かわざるをえなかったのである。
西郷は高鍋、都農、大貫と移動した。

可愛岳(えのだけ)

8月6日、西郷は諸隊長に「勝ちは目前にある。敵味方の兵力も差はない」という手紙を送った。
現実とは反対であることを知り抜いている諸隊長はどう思ったのか。
西郷がこの期におよんでもそう認識していたともとれるし、わざとそう言って励ましたともとれる。

8月13日に政府軍の延岡包囲が完了したが、西郷は10日夜に延岡を去ってさらに北へ向かっていた。
14日、延岡に残っていた薩軍主力に対して政府軍はに総攻撃を行ったが、薩軍はすぐに北へ逃げた。
15日、西郷は「前線へゆく」と和田越での戦いで陣頭に立ったが、弾が西郷にあたることはなかった。

政府軍には西郷の実弟の従道と従兄弟の大山巌がいた。
政府軍は谷干城率いる熊本鎮台軍が北方から南下しており、薩軍は蓋をされた形となった。
16日、西郷は援軍を開放すべき布告を出した。
和田越の戦いの時には三千余りいた薩軍の人数は、この頃には二千に減っており、解散命令で千人に減った。

16,17日、俵野の西郷の宿所で会議がひらかれ「可愛岳をよじ登ってはるか鹿児島へ帰り再挙をはかる」ことに決まった。
17日、政府軍は5万の兵で俵野を包囲した。

突囲

17日夜、西郷らは俵野から可愛岳を超えて脱出した。
可愛岳中腹にいた政府軍の三好種臣と野津鎮雄の旅団は、薩軍の襲撃をうけて逃げた。

一百里程

17日に可愛岳を出発した薩軍は9月1日に鹿児島へ入ったが、その途中はほとんどがけもの道であった。
可愛岳を出発したのは五,六百人であったが脱落者があり、城山に篭ったのは372人であった。
この難行軍の戦略目的が何であったかは誰にもわからない。

野村忍介は薩軍には珍しく戦略家であったため薩軍仲間から疎外され、軍議にも呼ばれなかった。
薩軍は8月28日に日向小林に達し、29日に鹿児島県横川に達した。
しかし、30日に政府軍の抵抗にあい、海岸線には出れずに蒲生郷に入った。

西郷は野村ひとりで蒲生城という山城を守るように命じた。
才略ある利口者を好まなかった西郷に、野村は捨てられたのである。
なお、戦役を通じて西郷が作戦命令を出したのはこのたった一度であった。
9月1日、野村は遅れてきた薩軍16人と蒲生城を守ろうとしたが、無意味だと拒否され駕籠に押し込まれ本隊の後を追った。

風を結ぶ

9月1日、薩軍は私学校構内に突入、城山を占拠して全軍をそこへ集結させた。
政府軍は陸海から7万の大軍で城山を包囲した。
3日夜、米が貯蔵されている土蔵を薩軍の貴島清率いる一隊が襲撃したが、政府軍に圧倒され退却した。

城山

山県は「ただ包囲せよ。決して攻撃はするな」と指示し、自身は8日に鹿児島へ入った。
政府軍の砲弾を避けるため、城山の薩軍は洞窟を掘ってそこに住んだ。

攻防

薩軍の多くは「西郷だけは助けたい」と思っており、辺見や村田もそれに同意したため政府軍への意見書を作成した。
西郷と桐野の反対があったが、辺見が河野主一郎に頼み実行された。
河野は西郷には「西郷の命乞いに行く」ということは伏せたまま、22日に山野田一輔を同行させて城山を出た。

23日、2人は磯の集成館で川村義澄と対面、「大久保と川路が西郷に刺客を放ったため、やむをえず挙兵した。本意ではなかった」と主張した。
川村は「それならばなぜ西郷個人が両人を法に照らして訴えなかったか」「開戦前に自分は軍艦で鹿児島港に入り、西郷に対面を申し入れたが私学校が邪魔をしたため去らざるをえなかった。なぜあの時邪魔をしたのか」「せめて戦局が都城の段階ならなんとかなったが、もはやなすすべがない」「西郷はなおいうべきことがあるであろう。私の陣所の来られよ」と言った。

そして河野は留め、山野田には山県の私信を渡して帰した。
私信の内容は「西郷が故郷に帰ってから数年、1日も君を忘れたことがない」「暴発には不本意ながらも壮士を見殺しにできなかったのではないか」「どうして早く自殺しないのか」といったものであった。

露の坂

24日午前4時、政府軍による総攻撃が開始された。
西郷、桐野、村田ら四十余人が洞窟を出て岩崎口にある薩軍堡塁へ向かった。
飛弾が激しくなると別府か辺見が「モウ、ユハゴワスメカ」と言ったが、西郷は「マダマダ」と答えた。
さらに進むと西郷は二発被弾し倒れ「晋ドン、モウココデヨカ」と言ったため、別府は「御免なって賜も」と言って介錯した。
首は西郷の従僕の吉左衛門が布で包みやみくもに駆け出し、土中に埋めた。
首はのちに政府軍の捜索で発見されている。

西郷の首が落ちた後、村田は腹を切って死んだ。
桐野は堡塁の上から敵を狙撃していたが、銃弾が桐野の額を貫き、死体は塁内へ真っ逆さまに落ちた。
辺見と別府は差し違えて死んだ。
塁外に出て乱弾の中で死んだという説もある。

「西郷以下の遺骸を手厚く葬りたい」という申し出が薩摩系将校と鹿児島県令の岩村通俊からあり、山縣はそれをゆるした。

紀尾井坂

西郷の死から数ヶ月後、大久保は史学者の重野安繹に「西郷の伝記を書いてくれ」と頼んだ。

明治11年3月25日、石川県士族の島田一郎は同志たちと共に大久保を暗殺すべく金沢を発った。
この挙動は金沢の警察署が探知し、県令から内務省に通報されていた。
報告を受けた川路は「護衛の必要はない。加賀の腰抜けに何ができますか」と言った。

「闇討は卑怯である」ということから、島田らは決行の4,5日前に大久保邸の門内に「近日、君の首を頂戴せん。」などを書いた封書を落とした。
5月14日、大久保は馬車で太政官に向かう途中の紀尾井坂で暗殺された。

明治12年1月、川路は船で横浜から外遊先のフランスへ出発したが、すぐに発病した。
その後やむなく帰国することになり、8月末にマルセーユを発ったがほどなく船中で昏睡状態となり、10月8日に横浜につき、5日後に亡くなった。

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