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「翔ぶが如く7 / 司馬 遼太郎」の感想・あらすじ

2024/02/01
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72点

感想

徐々に西南戦争が始まりそうな雰囲気になってきた。

大久保・川路が西郷を暗殺するために刺客を送り込み、さらには弾薬などを鹿児島から運び出すことで私学校を挑発。
それに応じた私学校生が政府の火薬庫を襲撃したことで開戦となった。

あらすじ

衝撃

明治9年10月27日、神風連の乱に応じて福岡県の旧小藩である秋月の氏族二百数十人が挙兵した。
しかし、福岡から来た警官隊や小倉を本営とする歩兵第十四連隊の鎮台兵に1週間で鎮圧された。
歩兵第十四連隊は乃木希典が指揮をとっていた。
乃木の実弟であり前原党の玉木正誼は乃木に謀叛を勧めたが、乃木は拒否した。

10月27日、前原一誠は挙兵したが、集まった士族は百人を超える程度であった。
10月31日、鎮台兵は四百人に増えた前原軍と市街戦をやったが鎮圧できなかった。
翌11月1日、前原は幹部数人と漁船で萩を脱出、残された前原軍は11月6日に鎮圧された。
前原は出雲で捕えられ、海路で萩に送られた後12月3日に斬首された。

東京にいた会津人永岡久茂は、前原から挙兵する旨の電報を受け取ると千葉県庁を襲う計画を立てた。
しかし10月29日、千葉に向かうために十三人が乗船したところへ警察が駆けつけ斬り合いとなり、永岡らは捕縛された。(思案橋事件)

薩南

鹿児島警察署長野村忍助は、熊本で神風連の乱が起こると西郷にそれを知らせに行ったが、西郷は「鹿児島に雷同させるな」と言っただけだった。
前原一誠が挙兵すると、永山弥一郎の弟である永山休二が西郷の元へ行ったが、西郷は「前原が間違っている」と断定した。

その後「太政官が討薩を計画している」という情報が私学校に入ると、野村は大阪府警察へ行き萩や熊本での騒乱に関する書類等を見せてもらった。
野村は神戸から汽船で帰ったが、高熱にうなされたため長崎の医者に家に数日泊まった。
そこで「西郷が1万の兵を率いて上京する」という噂を聞いた。

内務卿の靴音

鹿児島だけが太政官の威令から独立して治外法権を持っていることについて、木戸は大久保を責めた。
大久保は情報収集や暴発を抑えるために、官員の林友幸、高橋新吉(村田新八の従兄弟)、黒岡末備などを鹿児島に送り込んだ。

12月、警視庁の鹿児島士族二十余人が鹿児島に帰郷したが、その中の1人である宮内盛高が桐野と篠原を訪ねた後「挙兵はすでに決している」と川路に報告した。
大久保と川路が西郷を暗殺すべきに送ったという説があるが、真相はわからない。

東京獅子

警視庁側は川路が鹿児島に送り込んだ帰郷団の目的は説得であるとしているが、のちに私学校側は「東京獅子(あずまじし)」と呼び、目的は西郷の暗殺であるとした。
私学校側は蝶者として、戊辰の時に同じ部隊にいた谷口登太を帰郷団の中原尚雄に接近させた。
中原は谷口に「西郷を暗殺する」と打ち明けた。

明治10年1月下旬、太政官は汽船を鹿児島に派遣して火薬や兵器を搬入した。
私学校生徒は激怒した。
1月29日、私学校の生徒が草牟田の陸軍火薬庫を襲い、小銃弾6万発を奪った。
その後も別の火薬庫を襲った。

西郷の下山

明治10年1月31日、旧城下の騒動のために桐野利秋、篠原国幹、別府晋介らが集まり、政府を相手に決戦することを決めた。
西郷は報告を受けると「なぜ弾薬などを奪った」と怒鳴ったが、生徒を見捨てるわけにはいかず、2月2日に大隈の山を降り翌3日に武の自宅に戻った。

2月3日から7日までの間に帰郷組のほとんどが逮捕され激しい拷問を受けた。
2月9日に自主してきた野村綱は「大久保が火薬撤去を指示した」と自供し、それを聞いた西郷は「火薬撤去は内務卿の管轄外であり、それを支持していた大久保は刺客を送ることも承知していたことになる」と憤慨した。

鹿児島異人館

鹿児島郊外の磯という地名の場所には紡績工場があり、その西側の異人館には7人の英国人技術者が住んでいた。
維新後は県の雇い医師ウィリアム・ウィリスの公舎となっていた。
ウィリスは戊辰戦争に従軍して官軍や会津兵の手当てをするなどしたが、新政府はドイツ医学を導入したため、ウィリスは鹿児島に超高給で引き取られた。

2月6日、私学校本局で参加者二百数人で大評定が開かれ、別府晋介や辺見十郎太が挙兵を主張、永山弥一郎や野村忍介らは反対した。
西郷は「この体を差し上げますから、あとはよいようにして下され」と言った。
8日、ウィリスは従軍したいという意志を伝えたが、翌9日に大山県令が異人館にやってきて従軍は困難かもしれないと伝えた。

高雄丸

この時期の海軍のトップは薩摩人の川村純義だった。
鹿児島の変事を東京が知ったのは2月3日であり、大久保は神戸にいる川村に「西郷らを説得せよ」と電報を打った。
高雄丸で7日に出発し9日に鹿児島に着いた川村は、船上で大山綱良に会い「西郷と自分だけで話がしたい」と告げた。
大山は西郷にその旨を伝えたが、篠原らが西郷を制止した。
その後、桐野や篠原ら十数人が小舟で高雄丸に攻め込もうとしたが、高雄丸が沖合へ退避したため桐野らは断念した。

大山は再度高雄丸の川村を訪ねて西郷・川村に会談を約束したが、西郷には番兵が付いていて動けなかったため、三たび高雄丸へ行き西郷との対面は果たすことができない旨を伝えた。
9日の午後4時過ぎ、高雄丸は神戸に戻るために出発した。

11日、西郷が二十名ほどの護衛を伴ってアーネスト・サトウとウィリスに会うために異人館にやってきた。
西郷は出陣に当たって2人の英国人に挨拶しておきたかったものと思われ、自分の考えを話すこともなく、出発日は未定、人数は1万を超える、と2人の質問に答えただけだった。

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