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「翔ぶが如く6 / 司馬 遼太郎」の感想・あらすじ

2024/02/01
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64点

感想

島津久光は政府に不満をぶつけた、前原一誠は政府にかなり警戒されていた、神風連が決起したが鎮圧された、という内容だったが、 全体的にかなり退屈な内容だった。

あらすじ

浅草本願寺

明治8年6月、浅草の東本願寺で20日間に渡り地方官会議が開かれた。
最大の議題は府県会を民選にすべきかどうかであった。
鹿児島県令大山綱良は民選議会に反対していた。

宮崎八郎は白川県令安岡良亮に会い「熊本で民選による県会を開くべきだ」と訴えたが、安岡は「考えてみる」と答えた。
「八郎の本音は民会開設ではなく、それを足がかりに政府を倒そうとしている」と感じた安岡は、帰県してから植木学校の閉鎖を決断した。

島津左大臣

明治7年4月、薩摩の暴発を恐れていた太政官は島津久光を左大臣に任命し東京へ引き出した。
翌月、久光は三条と岩倉に「服装を孝明天皇の時代に戻せ、太陰暦に戻せ、洋風の兵制を元に戻せ」など25条の提言を行ったが却下されたため、以後病と称し浜町屋敷に引きこもった。

その後も口頭や書面で要求を続けたが受け入れられなかった久光は、10月に参内して三条実美を弾劾する上奏文を天皇に上亭した。
驚いた天皇は上奏文を三条に渡し、岩倉と大久保が返答について協議した。

その後、天皇が久光に口頭で「採用できない」と伝えて上奏文を返したところ、久光は辞職を言上して退出した。
同時期に板垣退助、有栖川宮親王からも三条を弾劾する上奏文が上亭されたが、大久保によって無効にされた。

薩摩への使者

辞表を提出した久光は西郷を起用して大久保を倒そうとした。
明治9年2月、久光の側近である内田政風が使者として鹿児島の西郷宅を訪ねた。
内田は「東上して西郷が政権をにぎることを久光公は願望している」と伝えたが、西郷は拒否した。
4月、久光は東京を去った。

この時期、大久保は西洋式の邸宅を建てた。
実際には借金をして建てたのだが、このことは全国の士族の感情を逆撫でした。

密偵

長州の前原一誠は参議や兵部大輔をつとめた後、山口に帰県した。
山口県の壮士が前原を擁して大爆発することを恐れた木戸は「中央に出て官に仕えよ」と前原に説いた。

明治8年7月、前原はひと月ほど上京したが、その間に反政府の壮士が相次いで前原を訪ねた。
明治9年1月、萩にある前原の屋敷に鹿児島から2人の男が来訪し「西郷先生からの密使でござる」といった。
実は2人は政治密偵だったのだが、前原は「もし起ち上がるなら西郷は武器を提供する」という嘘を信じ込み、いまにも反乱を起こすかのように答えた。

幻影

明治9年2月、前原は使者を薩摩に送ったところ、西郷が前原に密使を送った事実などないことが判明した。
4月、松下村塾の同門で太政官にいる品川弥二郎が前原を説得、前原は「反乱など起こさない」と確約した。

流説の巷

この時期、新聞の政府攻撃が苛烈になってきたため、政府は言論取締令である讒謗律(ざんぼうりつ)を発動して弾圧した。
明治9年3月には廃刀令が布告されたことで士族は憤り、熊本の神風連や萩の前原の反乱につながっていった。

神風連

熊本には横井小楠を教主としている実学党があるが、林桜園を教主として実学党や太政官を国賊として憎悪していたのが神風連である。
大田黒伴雄が中心人物である神風連は宗教のようなもので、占いで行動を決めていた。
廃刀令発令の後、神風連は前原と薩摩に使者を出した。

鹿児島へ

神風連の使者は西郷の屋敷を訪ねたが不在だったため、桐野に会ってから帰った。
桐野は「鹿児島が主導になってやる」という考えであり、使者は「鹿児島はあてにならない」という感想をもった。

蜂起

使者は熊本に戻り桐野との話の内容を報告、薩摩との提携案は打ち切られた。
10月24日、170人余りが集合し3隊に分かれた。
県令安岡良亮、熊本鎮台司令長官、参謀長、参謀、などの屋敷を襲撃し惨殺、さらに熊本城へ斬り込んだ。
鎮台兵が逃げるなど場内は混乱したが、徐々に盛り返して神風連は壊滅、太田黒は自害した。
この神風連騒動は全国の士族感情を強く刺激した。

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