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「翔ぶが如く2 / 司馬 遼太郎」の感想・あらすじ

2024/02/01
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77点

感想

三条実美が条件付きで西郷の征韓論を認めた、これを覆すために伊藤博文が奔走した。
様々な人の話が書かれているが、メインストーリーとしては上記のことしか進んでいない。

「西洋は文明国だという、しかし自分は野蛮国であるとおもっている。かれらは弱小の国をいじめ、侵略している。本当の文明とは、未開の国に対しては慈愛を本とし、懇々説論して開明に導くべきである」 という西郷の考えはもっともだと思う。
他国を侵略して植民地化していったイギリスやフランスと比べて、ドイツの方がよっぽど紳士的だと思う。

あらすじ

好転

三条実美は西郷に「岩倉具視の帰国後に熟議するという条件つきで遣韓論の勅許があった」と嘘をついた。
西郷は大喜びした。

西郷の弟従道は明治2年に山縣有朋と欧州の軍制を見学した。
日本ではようやく王政復古したところなのに、パリでは帝政が終わり労働者による共和政権が作られようとしていた。

著者は山縣を批判している。
明治維新は平等思想の希求だったはずなのに、山縣は明治17年に貴族制度を作った。
明治29年にロシアのニコラス2世の戴冠式に参列した山縣は、それを真似して天皇を荘厳なものに変えていった。
さらに、明治15年には軍人勅諭を発意し、軍隊を天皇の私兵であるかのような印象を与えた。

鈴虫

後に村田式連発銃を開発する村田経芳は、西郷に欧州留学を懇願し承諾を得た。
高崎正風(彼の父はお由良騒動(高崎崩れ)により処刑された)は川路利良を訪ね、パリのポリスの素晴らしさを話した。

風雨

伊藤博文、大隈重信、井上馨は征韓論を潰すために奔走した。
木戸はノイローゼになっていた。

欧州視察から帰国した岩倉は、養父の死を理由に1週間の休暇をとった。
英国公使のパークスは、内乱の一方に加担するよりも政情の安定によって貿易を増進させたかった。
そして、官軍に対して「もし江戸を攻撃するなら英仏は軍隊を出す」と脅した。

ジャニー

ジャニーとは、ジャップ以前に使われていた日本人に対する蔑称である。
1863年に伊藤や井上は長州の密留学生として横浜から上海に向かったが、その船内ではジャニーと呼ばれ4ヶ月間奴隷同然の扱いを受けた。
2人はロンドンで攘夷論など不可能で滑稽なものだと気付かされた。
長州藩が外国戦を砲撃しはじめたことを知ると急いで帰国し、英国公使館で「藩の方針を変えさせるので艦隊派遣は待ってもらいたい」と頼み込んだ。
1873年9月、伊藤の工作によりパークスとその書記のアーネスト・サトーが木戸邸を訪問し、征韓論は日本を滅ぼすものであることを木戸に伝えた。

千絵]

市ヶ谷にある持ち主不明の屋敷に薩摩の士官が住んでいたが、かつてそこに住んでいた旧幕臣の娘である千絵が戻ってきた。
千絵は徳川家と共に駿府へ行こうとしたが、船は小さく劣悪環境だった。
そして、下田で海へ落ちたという。
ある日、桐野利秋が屋敷に訪れ、かつて桐野が千絵の兄を斬り殺したことを伝えた。

廟堂

伊藤博文は大久保と木戸に参議になることを頼んだが、2人はそれを拒んだ。
薩摩の海老原穆は、新政府を倒すために新聞を作ろうとしていた。
記者兼スパイとして使える女はいないか尋ねられた桐野利秋の頭には千絵のことが浮かんだ。

秋の霜

大久保は死を覚悟して参議になることを決断した。
三条と岩倉は征韓派だった板垣と副島に時期尚早であることを説くと、2人は軟化した。
板垣は西郷を廟議から欠席させることを提案した。
当日の朝、西郷は三条の使いから「廟議を欠席するように」という手紙を受け取る。
怒って三条の家に行った西郷は板垣が裏切ったことを知り、悲痛な思いを持った。

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