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「翔ぶが如く5 / 司馬 遼太郎」の感想・あらすじ

2024/02/01
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感想

前半は大久保による清国との交渉、後半は宮崎八郎の活動について、が書かれていたが、全体的に難しく退屈な内容だった。

あらすじ

波濤(はとう)

駐清公使柳原前光は李鴻章と「金を出せば撤兵する」と交渉したがうまくいかなかった。
大久保は自分で台湾に行って交渉することを決意する。

陸軍卿山縣有朋は対清戦争に反対したが無視された。
大久保は大隈重信に台湾出兵支持の意見書を廟堂に提出させた。
三条や岩倉は反対したが大久保は譲らず、結局は明治7年8月1日付で大久保は渡清のための全権弁理大臣に任命された。

北京へ

大久保は10か条から成る宣戦発令順序条目をつくった。
英国は日本の征台に反対していたため、大久保はフランスとドイツを味方に引き入れた。
2国は北京で外交を独り占めしている英国、また清国政府そのものに反感を持っていたからである。
「大久保は天皇の代行者である」という国書を携行した大久保は、開戦決定を含めたすべての指揮権を持って交渉に臨んだ。

総理衙門(そうりがもん)

明治7年8月6日、大久保は汽車で新橋から横浜へ行き、汽船に乗り8月10日夜に長崎に着いた。
数日滞留した後、8月16日の朝に軍艦に乗って長崎を出港、8月19日に上海に着いた。
上海で会議や見物などをした後に軍艦で天津へ向かい、9月1日に天津に着いた。

大久保は上海にいる李鴻章を相手にせず、9月10日に北京へ行き、清国の正式な外交期間である総理衙門と交渉した。
9月14日、総理衙門で清国の諸大臣との第1回交渉が行われ、大久保は「貴政府が台湾を属地であるというならば、生蕃に対しどういう処分をおこなったか」と質問したが、清国から明確な回答はなかった。

北京の日々

10月5日の第4次談判でも交渉は決裂した。
戦争になると困る英国公使ウェードは「日清両国の仲裁に立ちたい」と発言し、清国から日本に償金を出させる意思を示した。

10月14日、大久保はウェードを訪ね「領土的野心はない。国家の名誉を保つことができるなら、撤退をします」と言明した。
ウェードが「どうすれば満足するのか?」と聞くと大久保は「それは清国政府が考えて決めることだ」と答えた。

五十万両(両=テール)

10月18日、清国の4人の大臣が大久保のホテルを訪れて第5回談判が行われた。
清国側は金を出す意思はあったが、脅されて金を取られたという印象を国内に与えたくなかった。

その後の第6,7回談判では清国側が強い態度に出たため、会談は決裂してしまった。
清国は「日本が撤兵してから事件について調査する」と主張したが、大久保は譲らなかった。
第6回の交渉後、日本の通訳とつとめていた鄭永寧に清国側から「日本の要求額はいくらか」を非公式に質問した。
鄭永寧は要求額は言わず「日本は征台に5百万ドル使った」と答えた。
この巨額に清国側は驚いた。

帰国

10月25日、ウェードが大久保のホテルを訪ねてきて「清国政府は50万両を出す。10万両は遭難琉球民への支給、40万両は日本政府が要した諸雑費への支給である」と伝えた。
※50万両=78万円=78万ドル

金額は少なすぎるが、大久保は「日本政府は償金の額について多少を論ぜよと私に命令しておりません。50万両でよいのです」と言った。
調印を終えた大久保は11月1日に北京を発ち、3日に天津に着いた。
そして、往路では戦術上わざと無視した李鴻章のもとを訪問した。

壮士

白川県(熊本県)氏族宮崎八郎は、志願兵として征台に参加していた。
台湾での戦闘は演習程度のものだったが、マラリアやアメーバ赤痢に罹患し病死する者が続出した。
戦死者12人、病死者561人であった。
八郎はのちにルソーの徒になるが、この時期は侵略主義者であった。

大久保は天津から上海に寄港し、さらに西郷従道に直接結果を伝えるために台湾に向かった。
従道の配下の壮士たちが撤兵命令を聞かずに台湾征服に乗り出すのではないか、と危惧していたからである。
さらに東京の黒田清隆に勅命が必要であることを伝え、勅使を送らせた。

11月16日、大久保は台湾に着くと従道らに談判の経緯を伝えた。
そして、以下は私談であると前置きした上で「40万両は清国に返そうかと思う」と言った。
「償金をとったのは、征台が義戦であるという日本の名分を立てるためである。名文がたった以上、これを返す方が義挙たるゆえんを他の諸国に理解せしめることにもなり、清国に対して信義を厚くすることでもある」というのである。
大久保は黒田への手紙にも同趣旨のことを書いたが、返還は実際には行われなかった。
太政官の財政事情が窮迫していたからだと思われる。

12月中旬、宮崎八郎らを長崎へ輸送する船が台湾に着いたが、八郎は東京の情勢を見るために従道らが乗る東京丸に乗せてもらうことにした。
八郎は船中での谷干城との会話で「政府を転覆させたい」と発言し、谷を驚かせた。
船が長崎に着くと「徴収隊の者は長崎で降りろ」と命令され下船した。

肥後荒尾村

明治8年、宮崎八郎はマラリア熱で衰弱しきった体で荒尾村の自宅に帰った。
八郎はその後、中江兆民が漢訳したであろうルソーの民約論を読み、自由民権運動者になったと思われる。

八郎は植木という場所に植木学校を設立しよう権令の安岡良亮に談判した。
安岡は八郎らの暴発を恐れていたため、治安上の計算から許可をした。

植木学校

八郎は植木学校を教育の場ではなく政治結社にするつもりであった。
明治8年5月28日、八郎は中江兆民に会うために、学校を人任せにして東京に行った。
中江兆民は土佐藩出身で、明治4年位岩倉使節団に留学生として同行し1年7ヶ月フランスに滞在、ルソーの思想に深く惹かれた。

明治八年・東京

明治8年6月、政府は讒謗律(ざんぼうりつ)という反政府的言論に対する弾圧法を発布した。
そうせざるを得ないほどに、反政府思想や言論が横行しはじめたのである。

明治8年1月、伊藤博文らの奔走で大阪会議が開かれ、木戸と板垣が大久保に重大な条件をつけて再入閣することになった。
入閣を拒否する木戸に対して、伊藤は三権分立を盛り込んだ新体制案を提案した。
民権主義であり、大久保の専制主義を批判していた木戸はこれを受け入れた。

このような情勢の中で上京した宮崎八郎は中江兆民の仏学塾を訪ね、「人間は原始時代には自由で平等だった」などといったルソーの民約論の講義を受けた。
そして、政府転覆を社是としている過激な集思社に入社した。

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