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「坂の上の雲6 / 司馬遼太郎」の感想・あらすじ

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78点

感想

ついにバルチック艦隊と連合艦隊の海戦になったが、連合艦隊の圧勝で幕を閉じた。

真之は精神的に深く疲弊し、戦後は宗教や仏門に関心を寄せながらも、まるで燃え尽きたかのように早く亡くなってしまった。その切なさが胸に残った。

あらすじ

退却

  • 1905(明治38)年3月6日、ロシア軍が乃木軍に攻勢をかけ、乃木軍は激しい戦闘の中で一部が潰走した。
  • 3月7日夜、「日本軍6千が奉天北方20キロに進出」との誤報がクロパトキンに届いたが、実際には秋山好古の支隊3千であった。
  • クロパトキンは「線路を遮断されたら全軍が窮地に陥る」として渾河までの退却を命じた。
  • クロパトキンの部下からは反対意見が出たが退却は実行され、さらに9日には奉天北方70kmにある鉄嶺までの退却を命じた。
  • 10日、日本軍は退却するロシア軍に対し火砲で大打撃を与えた。
  • その後も日本軍は追撃して鉄嶺を占領、ロシア軍は遠く公主嶺まで逃げざるを得なかった。
  • 奉天会戦における日本軍の死傷は5万以上、ロシア軍は捕虜3万を含めて16,7万人であった。
  • 日本軍は奉天会戦でロシア軍を退却させたものの、決定的な勝利とは言い難い。ただし、敵地に踏み込んだという点では、勝利と評価することもできるかもしれない。
  • 児玉は講和工作を進めるため内密に東京へ向かい、3月22日に大連を出港して28日に新橋駅に到着した。
  • 児玉は山県・伊藤・桂・山本らに会って講和交渉開始を要請した。また、陸軍首脳の秘密会議を開き「ロシアに日本の内情を見透かされてはならん」「野戦軍が積極的な姿勢をとらないとロシアは講和に乗らないだろう」と主張した。
  • 日本は正規の外交機関の他に、伊藤が米国へ金子堅太郎、英国へ末松謙澄を派遣していた。金子の活動は成功したが、末松は結果を出せなかった。
  • イギリスは日本が大陸で強大な力を持つことを恐れるようになり、フランスは同盟国のロシアが奉天会戦で敗れたことで「日露を講和させるしかない」と考えた。
  • 金子が着いた頃のアメリカはアジアに対して中立の立場をとっていたが、金子がルーズヴェルト大統領と会うごとに「ロシアがアジアで強大になるとアジアの勢力均衡が崩れる」として日本寄りになっていった。
  • しかし、ルーズヴェルトは日本が大勝して大きな賠償を得ることを望んでおらず、日本の要求を削るために自らが調停者になろうとしていた。

東へ

  • バルチック艦隊は、給炭や故障のためインド洋を横断するだけで20日間もかかった。4月5日にスマトラ島の北を通りマラッカ海峡へ進み、8日に英国の支配下にあるシンガポール沖に達した。
  • 4月14日にス領である南ベトナムの東岸にあるカムラン湾に入ったが、ここでネボガトフ少将が率いてくる第三太平洋艦隊を待たねばならなかった。
  • 数日後、フランスの軍艦が入港してきて「退去してもらいたい」と言ってきた。英国や日本がフランスに抗議していたためである。
  • 22日、カムラン湾から外洋に出たが、それから二十余日間も沖合で漂泊した。
  • ネボガトフの老朽艦隊は5月1日にマラッカ海峡に入り、4日にシンガポール付近に達し、9日にバルチック艦隊に合流した。

艦影

  • 5月14日、バルチック艦隊はカムラン湾の北方にあるヴァン・フォン湾を出て対馬海峡へ向かった。
  • 日本軍はバルチック艦隊が対馬海峡を通るのか、太平洋をまわって津軽海峡や宗谷海峡を通るのか、確信が持てなかった。
  • バルチック艦隊は19日に台湾を通り22日に東シナ海に入った。
  • 真之ら艦隊幕僚は「敵は太平洋を通る」と予測し、鎮海湾を去って北上しようとしてその旨を大本営に伝えた。しかし、東京の大本営は「敵は対馬海峡へやってくる」と予測していた。
  • 敵は対馬海峡へくると確信していた第二艦隊司令官の島村速雄と参謀長の藤井較一は、三笠の長官室を訪ねて東郷に「長官はバルチック艦隊がどの海峡を通ってくるとお思いですか」と聞いた。東郷は「それは対馬海峡よ」と言いきった。
  • 東郷は艦隊幕僚が大本営に「鎮海湾から移動したい」と電報を打ったことすら知らなかった。
  • 東郷は「宗谷海峡あたりは霧が深く大艦隊の航海が容易ではない」「長期の航海を続けていて速度が出ないため、太平洋をまわったら日本艦隊に追いつかれる」「太平洋をまわるには大量の石炭が必要となる」という3つの理由から対馬海峡を通ると予測していた。

宮古島

  • 5月25日、ロジェストウェンスキーは艦隊の針路を対馬にとるよう命じた。
  • 日本人として最初にバルチック艦隊を見たのは奥浜牛という29歳の青年だった。彼は那覇から300キロ南西の宮古島へ雑貨を売りに向かい、翌朝にバルチック艦隊に先行して哨戒している巡洋艦を発見した。
  • 26日朝、奥浜は宮古島に着くと島庁に報告、宮古島には無線設備がなかったため石垣島の電信局にこれを伝えることとなった。
  • この時期の宮古島から石垣島への航海は命懸けだったが、垣花善という漁夫がそれを承知して引き受けた。
  • 垣花善は弟・従兄弟2人・友人、の5人で出発、15時間漕ぎ続けて石垣島に到着、「敵艦見ゆ」という電信が那覇の県庁と東京の大本営に送られた。しかし、これは東郷艦隊の哨戒艦信濃丸の打電より遅れた(時間については諸説あり)ものであった。

敵艦見ゆ

  • 5月27日、哨戒艦信濃丸はバルチック艦隊を発見し「敵艦隊見ゆ」と打電、その後敵の針路も報らせた。
  • 信濃丸の最も近くにいた巡洋艦和泉はバルチック艦隊に接近、敵の艦数や陣形、針路、煙突が黄色であることなどを報らせた。

抜錨

  • 信濃丸からの無線を受信すると、旗艦三笠から大本営に「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃沈 滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と電報が打たれた。
  • 最後の「本日天気〜」は真之が付け足したものであり、これは東京の気象官が朝届けてきた天気予報の文章であった。
  • 「天気晴朗」は霧がないため敵を見失う可能性が低いこと、「波高シ」は波が高いと命中率が下がるため砲術能力に勝る日本に有利であること、を示している。
  • 連合艦隊は鎮海湾から出港し、鋼板に積み上げられていた石炭を捨てた。石炭は敵が津軽海峡に来た場合に備えたものであった。

沖ノ島

  • 第三艦隊らはバルチック艦隊を主力艦隊にひきあわせるために密着、巡洋艦群は大胆にも敵艦隊を追い抜いて前を横切った。
  • これをロジェストウェンスキーは「機雷を撒いた」と誤認し、右に避けるための艦隊運動をを行い、その後針路を左に戻した。
  • しかし、戦艦アレクサンドル三世がその信号を誤認して旗艦スワロフの後ろにくっついてしまい、他の後続戦艦もそれに続いてしまった。この陣形の乱れが決戦時に禍害をなすにいたった。
  • この海域にある沖ノ島という孤島は島自体が神として祀られてきた島であり、神職1人と雑役の少年1人が住んでいた。
  • 日露戦争が始まると島に望楼や砲台、海底伝染などが敷設され通信技師など5名が常駐した。
  • 5月27日、島の西南から砲声が聞こえた。バルチック艦隊がうるさくつきまとっている日本の巡洋艦群を射った砲声だった。

運命の海

  • 5月27日正午、連合艦隊は会敵地点と予測していた沖ノ島の西方に着いた。
  • 前述の乱れによりバルチック艦隊は二列縦陣となっていたため、ロジェストウェンスキーは単縦陣を作ろうとした。しかし、うまくいかなかった。
  • 13時39分、旗艦三笠はバルチック艦隊を発見、13時45分には距離1万二千メートルとなった。
  • 13時55分、東郷は船同士の意思疎通のために用いるZ旗を使って「皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨ」という信号を各艦送った。
  • 敵艦との距離が8千メートルまで近づくと、東郷は右手を高くあげて左に半円をえがくように一転した。
  • それは取舵一杯(左に急転)の指示であり、東郷はT字戦法をとったのである。
  • 14時8分、敵の砲弾が連合艦隊に降り注ぎ旗艦三笠らは大きな被害を受けた。
  • 14時10分、転回を終えた旗艦三笠は敵の旗艦スワロフとそれに並航している戦艦オスラービアに向けて砲撃を開始、後続の艦隊も転回を終えると砲撃した。
  • 敵との距離が五千メートル台になると、激しい撃ち合いになった。
  • 連合艦隊は15分ほどで転回が終わると本格的な砲撃を開始、オスラービアは火災が起こり海水が入って傾いた。
  • 14時45分、東郷は針路を右へ変更し敵に猛烈な縦貫射撃を加えた。三笠とスワロフとの距離はわずか二千四百メートルにまで接近していた。

砲火指揮

  • 東郷は「射距離は艦橋において掌握する」と命令していた。ロシアは各砲台で射距離を決めていたため、バラバラだった。
  • また、東郷は敵との距離が三千メートル以内になると鍛鋼榴弾(炸裂して兵員を殺傷する砲弾)から、徹甲榴弾(艦隊の装甲部をぶち抜くための砲弾)への詰め替えを指示した。ロシアにはそういう考えはなかった。

死闘

  • スワロフは砲撃により舵機が破壊され北へ回頭した。14時58分、東郷はこれを意図的に針路を変えたものと誤認、左転回を指示してしまった。
  • しかし、第二艦隊の旗艦出雲にいた参謀佐藤徹太郎と司令長官上村彦之丞は「スワロフは舵が故障した」と判断し、右に回頭して敵の頭を押さえにいった。
  • 第二艦隊の冒険は成功し、スワロフ・オスラービアに代わって先頭に出てきたアレクサンドル三世に猛烈な射撃を加えた。
  • さらに、第二艦隊はオスラービアにとどめを刺そうと砲撃、15時10分にオスラービアは沈没した。
  • バルチック艦隊は三番艦のボロジノが先頭に出て北方への遁走を試みた。第二艦隊はこれを沖合に見失ってしまったが、15時58分に東郷の第一艦隊が運よく敵艦隊と出くわした。
  • 第一艦隊と第二艦隊で挟撃する形となり、バルチック艦隊はバラバラに分断された。。
  • 19時10分、日没に近づいたため日本は発砲を停止、駆逐艦や水雷艇による野戦に切り替えた。
  • バルチック艦隊では、駆逐艦ブイヌイがオスラービアの乗員204人を救助した後、スワロフの残骸を発見し重傷を負ったロジェストウェンスキーらを救助した。
  • その後、800人以上の乗組員が残っていたスワロフは魚雷が命中し沈没した。
  • 戦艦のボロジノとアレクサンドル三世も沈没し、バルチック艦隊の新式戦艦5隻のうち、残ったのはアリョールだけであった。

鬱陵島

  • 東郷は「全艦隊は鬱陵島に集合せよ」と指示した。
  • 決戦翌日の28日午後、小さな駆逐艦漣(さざなみ)と陽炎はロシアの駆逐艦ベドーウィとグローズヌイを発見、先頭のベドーウィにはロジェストウェンスキーが乗っていた。
  • 陽炎はグローズヌイを砲撃したが取り逃してしまった。ベドーウィは機関を止めて白旗を掲げ、降伏の意思を示した。
  • 漣の塚本中尉は兵員10人を連れてベドーウィに乗り込むと、ロジェストウェンスキーがいたため驚いた。
  • その後、ベドーウィを佐世保までひっぱり、ロジェストウェンスキーを海軍病院に入院させた。

ネボガトフ

  • 27日の決戦で日本海軍が新鋭主力艦は攻撃目標としていたため、ネボガトフ率いる第三戦艦戦隊(旗艦ニコライ一世)は攻撃対象外となり被害は少なかった。
  • 28日朝、ネボガトフの5隻の軍艦は発見され日本軍27隻に囲まれたため、降伏を決意した。
  • 降伏すれば軍法会議で死刑を宣告されることになるが、ネボガトフは二千五百人の乗員の命を守ることを優先した。
    (ネボガトフは戦後死刑を宣告されたが、のちに赦されて十年の禁固刑となった)
  • 10時30分に日本軍は射撃を開始、敵が白旗を掲げているのに気付いたが東郷は射撃を続けさせた。真之は「武士の情けであります。発砲をやめてください」と怒鳴ったが東郷は「本当に降伏すッとなら、その艦を停止せにゃならん」と言った。
  • ほどなく敵もそのことに気づき機関を止めたため、東郷は射撃を中止させた。
  • 東郷は「秋山サン、ゆきなさい」と、真之を旗艦ニコライ一世に乗り込ませた。
  • 真之は上甲版の屍体の群にひざまずいて黙祷した。その様子を見た敵の兵員たちの態度からは反抗の色が消えた。
  • 真之らが司令官室に通されると、やがてネボガトフ少将が入ってきた。真之は降伏条件などを伝えた。
  • その後、ネボガトフと幕僚たちは三笠で東郷と会見した。
  • 28日、さまざまな水域でロシアの残艦が日本の戦隊に発見され、撃沈された。

雨の坂

  • 30日、東郷艦隊は佐世保に入港、ロジェストウェンスキーをのせた駆逐艦ベドーウィが既に入港していた。
  • 数日後、東郷は真之とフランス語が堪能な山本信治郎大尉を連れて、佐世保海軍病院にロジェストウェンスキーを見舞いに行った。
  • 東郷は病床のロジェストウェンスキーに手をさしのばして握手し「われら武人は祖国のために生命を賭けますが、私怨などあるべきはずがありませぬ。一日もはやくご全癒くださることを祈ります」などと語った。
  • 満州では、クロパトキンと交代した総司令官リネウィッチが兵員・資材の補充のために秋まで陣地防御に専念しようとしていた。
  • 一方、日本軍も補充には一年以上要するという悲惨な実情にあった。
  • 戦線は膠着していたが、バルチック艦隊の全滅以降も満州では戦闘が続いた。
  • その戦場で好古は母のお貞が病没したという知らせを受けた。真之は佐世保で知った。
  • ルーズヴェルト大統領の講和調停により、8月10日からアメリカのポーツマスで日露が会談に入り、9月5日に講和条約が調印、10月14日に批准された。
  • 9月11日、佐世保港で旗艦三笠が爆発し沈没、死者は339人だった。
  • 旗艦は敷島に変わり、10月20日に艦隊は東京湾に凱旋、12月20日の連合艦隊は解散した。
  • 連合艦隊解散後、真之は早朝に家を出て、しっとりとした坂道の空気に包まれる根岸の芋坂の茶店に立ち寄り、静かに胸の内を思い巡らせながら、田端の大竜寺にある正岡子規の墓を訪れた。
  • 真之は大正7年2月4日、49歳で死去した。「みなさんいろいろお世話になりました。これから独りでゆきますから」が最期の言葉だった。
  • 好古が内地に凱旋したのは明治39年2月9日だった。
  • 好古は大正5年に陸軍大将となり、12年に予備役に入った。翌年故郷の松山に戻って私立北予中学の校長となり、昭和5年4月までその職を続けた後東京へ帰ったが、11月4日に71歳で病没した。

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