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「「幕末維新」の不都合な真実 / 安藤 優一郎」の感想・あらすじ

2024/02/02
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77点

感想

一般的に言われている定説は真実とは異なる、ということがいくつか書かれていてそこそこ面白かった。

この書籍に書いてある内容が真実である可能性が高いと思う。

また、歴史は勝者によって作られる、ということなのだと思う。

簡単なまとめ

「西郷と勝の会談によって江戸城無血開城が実現し、江戸は戦火から免れた」というのが定説となっているが、実はその後も新政府と徳川家の間で激しい駆け引きが続いていた。

新政府軍は、無血開城の前に関東各地に脱走した徳川家の陸軍将兵と戦っていたため、江戸は手薄になり江戸の治安が悪化した。
大総督府は勝に江戸の取り締まりを委任した。
勝は水戸に隠退した慶喜を江戸に戻そうとし、江戸城の返還まで目論んだ。
しかし、その後の上野戦争で彰義隊が惨敗したことで、大勢は一気に新政府軍に傾いた。

江戸総攻撃は中止ではなく延期

1868年3月9日、山岡鉄太郎は徳川家の使者として駿府で西郷隆盛と会談、翌10日に大総督府から慶喜助命条件の7箇条が提示された。
山岡は12日に江戸に戻り、翌13日に勝海舟が薩摩藩の高輪屋敷を訪ねて西郷との1回目の会談が行われた。
14日の2回目の会談で勝は7箇条に対する嘆願書を西郷に提示、その内容は「不服とする陸海軍が武力抵抗に出るかもしれないため、いますぐに武装解除することはできない。軍艦・兵器は徳川家の処分決定後に引き渡す」「新政府に敵対した大名には寛大な処分にしてほしい」など、西郷にとっては到底受け入れられないものであった。

しかし、イギリス公使パークスが総攻撃に猛反対していたこともあり、西郷は嘆願書を受理して大総督の有栖川宮がいる駿府に出向くこととし、それまでは総攻撃を延期すると勝に伝えた。
定説では14日の会談で総攻撃は中止となったとされているが、実際には一時中止・延期である。

西郷隆盛が勝海舟の嘆願を受け入れたわけではない

西郷は駿府に移動し嘆願書の内容を協議したが結論は出ず、京都に戻った。
朝廷での三職会議で嘆願書が審議され「武器・軍艦は全て没収」「会津・桑名藩には兵を差し向ける」など、かなり厳しい回答が新政府から提示された。
定説では「西郷の度量により勝の嘆願は全面的に受け入れられた」というイメージだが、実際には全く違う。

無血開城が実現したのは徳川家の将兵が脱走したため

徳川家は新政府からの回答を受け入れる意向を示したが、幕臣たちが猛反発していたため自主的に完全な武装解除をすることができない旨を東海道先鋒総督府に伝えた。
開城に先立って徳川家の陸海軍の一部が脱走、開城当日の4月11日には榎本武揚の指揮で8隻の軍艦全てが脱走した。

江戸城開城当日、東征軍は一戦も覚悟していたが、徳川家側の将兵が脱走してしまったことで戦争は起きなかったのである。
新政府内では徳川家の対応に不満が募り、勝との交渉に当たった西郷の立場が悪化した。

仙台藩は最初は新政府側だった

仙台藩と米沢藩は新政府との仲介役となり会津藩に恭順を勧めていたが、会津藩は提示された条件に難色を示していた。

その後新政府から会津藩討伐を命じられ出兵した両藩は東北列藩会議を開き、会津藩への寛大な処置を求める嘆願書を総督府に提出した。
しかし、総督府参謀の世良修蔵により却下されたため仙台藩は強く反発、世良を暗殺してしまう。
その後東北諸藩は奥羽列藩同盟を結び、さらには越後諸藩も加えた奥羽越列藩同盟に発展、新政府との全面対決の道を選んだ。

新政府内には徳川家への寛大な処置を求める声も多かった

江戸城に入城した翌日、大総督府は徳川家の処分に関して諸隊に諮問した。
その回答の多くは「騒乱を収めるために、寛大な処置を取って幕臣の気持ちを宥めるべき」というものだった。
しかし、最終決定権を持つ京都の新政府首脳部には寛大な処置を求める声はなく「徳川家は駿河移封」「江戸城は返還しない」という処分に決定した。

彰義隊の戦いが転換期となった

融和路線に不満を抱いた新政府は、大総督府参謀として大村益次郎を派遣した。
5月15日、大総督府は寛永寺に集結していた彰義隊を壊滅させた。

徳川家の駿河70万石への減封が公表されると、島津斉彬の養女である天璋院篤姫は大総督府に嘆願書を提出した。
しかし、受け入れられなかったため、仙台藩主伊達慶邦に新政府を討伐してほしいと書状を送った。

明治政府にとって都合の良いストーリが定説となった

彰義隊の戦いに勝利したことで明治政府は徳川家処分を断行し、江戸城は返却されなかった。

以降、戊辰戦争は新政府が勝つべくして勝ったというストーリーに改変されていった。
まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。
「明治政府は戦わずして徳川家に江戸城開城を認めさせた」とすることで、政権交代の正当性を主張でき、敗者にも寛大な懐の深さ示すこともできたのである。
裏で激しい駆け引きがあったことや、彰義隊の戦いに注目されることは、明治政府にとって都合が悪かったのである。

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