「3時間半で国際的常識人になれるゆげ塾の速修戦後史 欧米編 / ゆげ塾 (その4)」の感想・あらすじ
目次
戦後ソ連史
フルシチョフ
1953年にスターリンが死去すると、フルシチョフが後を継いだ。
フルシチョフはスターリンとは異なり、資本主義諸国に歩み寄っていった。
1959年にはアイゼンハウアーのもとを訪れた。
資本主義陣営への歩み寄りは、中国や東欧諸国の反発を招いた。
中ソ対立
1956年のソ連共産党第20回大会でフルシチョフが西側との共存を訴えると、毛沢東は激怒した。
中国は朝鮮戦争で100万人以上の死者を出していたからである。
また、「スターリンの独裁は間違っていた、独裁はやめよう」との発言を毛沢東は自身へのあてつけと感じた。
中ソ対立はそれから長い間続いた。
東欧諸国の反発
フルシチョフのスターリン批判により、東欧諸国は民主化を望んだが、フルシチョフは東欧諸国がソ連の支配下から外れることは許さなかった。
1956年、ポーランドでは反ソ連の都市ポズナニと首都ワルシャワで内戦となり、ワルシャワが勝利した。
同年、ハンガリーがソ連からの脱離を宣言するとソ連は赤軍を投入、ブタペストはソ連に占領された。
これはハンガリー動乱と呼ばれる。
キューバ危機
1960年、ソ連はアメリカの偵察機U2を撃ち落とした。
以降、東西の緊張が高まり、1961年にベルリンの壁が作られ、1962年にはキューバ危機にまで至った。
ブレジネフ
キューバ危機を乗り越え、プレジネフの時代にはデタントの時期を迎える。
NPT(核拡散防止条約)やSALT I(第一次戦略兵器制限交渉)が締結されている。
1968年、チェコのプラハで反ソ連暴動が発生、ソ連軍はチェコ=スロバキアに侵攻した。
ブレジネフは「社会主義陣営の利益は各国の利益に優先する。社会主義陣営の国家のしぃけんは、社会主義全体のために制限されるべきた。」と述べた。
このブレジネフ=ドクトリンのもと、プラハは鎮圧された。
これはプラハの春と呼ばれる。
かつてロシアがナポレオンに、ソ連がヒトラーに侵攻された。
そのため、ソ連は防波堤である東欧諸国の離脱は許さなかったのである。
衛星放送がソ連の衛星国を消滅させた
プラハの春から20年後の1988年、ゴルバチョフはブレジネフ=ドクトリンを放棄した。
人々は衛星放送で資本主義国家の豊かな暮らしを見て、自分たちがいるのは地獄であることに気づいた。
1989年の秋冬に怒涛の如く、東欧の共産党国家が倒れていった。
ゴルバチョフ
1985年に書記長に就任。
ペレストロイカ(立て直し)を始めて、計画経済から市場経済に移行した。
また、グラスノチ(情報公開)を推し進めた。
これらの改革は、経済の混乱と共産党独裁への不満を表面化させたため、結果的にはソ連の崩壊へとつながった。
1989年のマルタ会談で冷戦は終了した。
チェルノブイリ原発事故
1986年、ソ連の構成国ウクライナのチェルノブイリ原発が爆発した。
しかし、近隣の街への避難命令は36時間後、2日後に簡単なテレビ報道、4日後に4行程度の新聞記事、というありさまだった。
ソ連が共産党独裁国家であったため、共産党に不利な情報は流さなかったのである。
この件をきっかけに、ゴルバチョフはグラスノチ、そして民主化を進めていくこととなった。
戦後ポーランド史
1956年のポズナニ暴動から約25年後、共産党独裁への不満が強くなり、労働者による自主管理労組「連帯」が結成された。
リーダーであるワレサは造船電気工のおじさんである。
1989年の東欧革命の年に全国民が参加する選挙が実施され、上院下院ともに全議席を連帯が獲得した。
翌1990年、ワレサ大統領に就任、後に彼は電気工に戻っている。
戦後ルーマニア史
1965年以降、共産党のチャウシェスクによる独裁が続いた。
チャウシェスクは毛沢東の独裁に憧れており、中ソ対立でも中国側についた。
東欧の他の国とは違いルーマニアは石油が採れるため、軍事介入を受けない程度にソ連を批判することができたのである。
チャウシェスクの宮殿「国民の館」はペンタゴンに次ぐ世界2位の大きさを誇り、部屋数は3000を超える。
1989年の東欧革命の際に革命軍と治安部隊の激しい衝突が起きた。
結果、治安部隊は負け、チャウシェスクは銃殺された。
戦後アルバニア史
戦後のアルバニアの指導者となったのはマルクス=レーニン主義者のホジャである。
資本主義諸国はもちろん敵であり、アメリカと仲良くするソ連も敵、毛沢東も結局アメリカと仲良くなったので敵、ホジャの目には全世界が敵に映った。
アルバニア全土に防護陣地を作り、地雷を設置した。
スパイ侵入を恐れて鎖国を行い、貿易や援助の受け入れも困難となった。
人口が300万人と少ないため市場は狭く、鎖国のため工業もできない。
農業・牧畜は埋めまくった地雷のためにできない。
結果、アルバニアは欧州一の最貧国となった。
その後、東欧革命により自由主義国家となったが、ガチガチの共産国家だったため人々は契約や自己責任に慣れていなかった。
なんと国民の半数以上がネズミ講を買い、30%が破産した。