「平成プロレス 30の事件簿 / 瑞佐 富郎」の感想・あらすじ
点数
79点
感想
1つ1つがストーリーになっていて、読み応えがあった。
全てが真実かどうかはわからないが、初めて知った事実もあり、改めてプロレスはいいものだなと思った。
難しい漢字が使われていたり、文章の区切りがおかしかったりで、少し読みづらかった。
アントニオ猪木参議院選挙当選
アントニオ猪木が参院選に当選した後、新間寿に「入れて頂けたんですか?」と聞かれたジャイアント馬場は「言わせるなよ」と答え、「やっぱり、やるからには当選して欲しいからな」と笑った。
天龍源一郎のSWSへの移籍
天龍の全日本プロレス時代の1年の試合級総額は約2,300万円だった。SWSは契約金だけで1億円以上を払ったという。
SWSは週刊プロレスの偏向報道により人気が落ちていったが、橋本真也はそれに対して「プロレスにお金を出してくれる人のことを悪く書いたら、これからスポンサーになろうと思っている人も逃げちゃいますよ」というコメントを残している。
第二次UWFの崩壊
第二次UWFの崩壊後、無給のはずの船木誠勝と鈴木みのるの口座には2ヶ月分の給与が振り込まれていた。振込人は「マエダアキラ」であった。UWFの全選手が生活に迷わぬよう、自身の身銭を切って振り込んでいたのである。
1999年2月21日の前田の引退試合には、第二次UWFの鈴木専務が来場。過去の非礼を謝罪し、神社長からの詫び状を手渡した。
新日本とUWFインターの対抗戦
1995年8月24日、新日本とUWFインターはそれぞれの事務所で14時から会見を行った。長州力と高田延彦の電話会談により対抗戦が決定、長州は「東京ドームか横浜アリーナ、空いてる日、どっか押さえろ!」と新日本の広報に指示した。
しかし、実際には7月中旬に新日本の永島勝司とUWFインターの鈴木健による会談が行われ、10月9日に東京ドームで対抗戦を行うことが決まっていた。
安生洋二のグレイシー道場破り失敗
1994年12月、安生洋二はヒクソン・グレイシー道場に乗り込んだが、返り討ちにあった。各雑誌に道場破り失敗後の安生の写真が掲載されたが、その中の1枚に道場の看板が写っており、そこには道場の電話番号も書かれていた。
その写真に注目し、電話でヒクソンとのコンタクトに成功したのが、後にPRIDEを手掛けることになる榊原信行であった。そこから紆余曲折あったものの、1997年10月11日に高田VSヒクソン戦が実現した。