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「峠(下) / 司馬 遼太郎」の感想・あらすじ

2024/02/02
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87点

感想

ぎりぎりまで武力行使を我慢していた継之助が、中立を諦めて開戦、そして敗戦するまでが描かれていた。

まだ若かったから仕方がないが、岩村高俊の無能さが北越戦争を起こしてしまったというのが印象に残った。

継之助の無念さが感じられて、読み応えのある内容だった。

あらすじ

越後へ

江戸にいた150人の長岡藩士は、スネルの船で長岡へ移動した。
一緒に会津藩士を塩竈港、桑名藩士を新潟港まで乗せていった。

伊勢桑名藩の藩主松平定敬は慶喜と一緒に江戸に逃れていて、桑名城は官軍に明け渡していた。
そのため幕府領であった柏崎10万石が与えられ、桑名藩士はそこへ移動したのである。
船内で、桑名藩の立見鑑三郎は徹底抗戦を主張したが、継之助は「幕府側には、反薩長勢力を統一・指導できる政治家がいない」と話した。

継之助が洋上にいる頃、越後高田藩は官軍に恭順した。
継之助は桑名藩士と共に長岡で船から降り、江戸から運んできた2万両分の銅貨を売り莫大な利益を得た。

故郷

新潟での商務を終えた翌朝、継之助は徒歩で長岡にむかって発った。
白根の旅籠で泊まり、翌日は貸し馬に乗って長岡まで駆けた。

長岡城では藩の重役により、以下の継之助不在中の出来事が報告された。
「官軍の芸州広島藩兵250人が越後高田城まで来た」
「官軍参謀は越後11藩の重役を集めて『軍勢と軍費3万両を差し出せ』と要求した」
「その後、官軍は大総督府に合流するために江戸へ向かい、越後諸般の重役を人質として連れていった」

長岡藩は譜代大名であるため、前藩主の忠恭をはじめとするほとんどの藩士が官軍に対して好戦的だった。
そして、官軍総督府に対して「徳川家を救済してほしい。大政奉還の大功を評価してほしい」という陳情書を提出しようとしていた。
それを聞いた継之助は「そんな生ぬるい手に官軍幹部が乗るはずがない」「どうせ官軍はこれっきりではない。やがて大挙して北陸にくる、そのときでいい」と言った。

その後、越後藩の執政(=首相)となった継之助は「侍の日没後の会合禁止」という布告を出した。
官軍と会津藩から工作者が来て長岡藩が両勢力に分かれてしまうことを危惧したものだったが、藩士からは反撥された。

戦雲

継之助は藩内の恭順派であった安田正秀に「なぜ戦備を整える必要があるのか?官軍に刃向かうと賊軍となってしまう」と詰問され「秘策がある」と答えた。
その秘策とは「官軍は会津藩を最大目標としているため、長岡藩はどちらにもつかず両者の調停役になる。聞き入れない側は、会津であれ官軍であれ討つ」というものだった。

官軍が江戸から宇都宮へ進軍したことで、旧幕軍は会津へ逃げ、会津を防衛するために幕府直轄領だった新潟にも入ってきた。
旧幕軍は強盗強姦をはたらき、小藩から金を脅し取っていた。
継之助は旧幕軍大将の古屋作左衛門を呼び出し、新潟から立ち退いてほしいと要求、古谷はそれを受け入れた。

その後、「長岡藩も奥羽同盟に入ってほしい」と会津藩からの使者がやって来たが、継之助は拒否した。

西軍

官軍は長岡藩を会津・桑名と同一視し、山縣有朋・黒田清隆を参謀とした大軍団を京都から越後へ向かわせた。
岩村高俊を軍監とした山道軍は、江戸を出発すると信州で諸藩を味方につけながら長岡へ向かい、越後高田藩で大軍団を待った。

長岡藩は官軍から「戦うのか降伏するのか」を一度も確認されていないが、「戦備を整えている。恭順派を圧伏している」などの諜報から一方的に会津藩の仲間とされてしまった。
もし長岡藩が戦いを逃れようとすれば官軍から「会津藩を討て」と言われることは明白であり、「新政府につくか会津藩につくか」どちらかしかないという時勢であった。

継之助は「敵は、西軍でも会津でもない。軍装してわが領内に入る者はことごとく敵である」と戦備を命じた。
そして、夜戦本営を長岡城の南にある摂田屋村に置き、継之助はそこに常駐した。

西軍と東軍が各地で衝突を開始、継之助は「自分が戦死したら藩主父子をフランスに亡命させてほしい」とスネルに手紙を書いた。

小千谷談判

西軍が小千谷を占領すると、継之助は「出頭したい」と使者を送り、西軍はそれを受け入れた。
継之助は長岡城へ行き、西軍と談判する内容を藩主父子に言上し、翌朝に小千谷の官軍本営に向かった。

その頃、小千谷から3里ほど離れた片貝村に2千人の会津兵が進軍してきて西軍と衝突した。
会津藩の越後派遣軍は、継之助が官軍本営を訪れることを知っていて「官軍に降伏、もしくは中立を了承させるのでないか」と危惧していた。

会津側は「片貝村を奇襲すれば官軍本営は会談どころではなくなる」と考えていた。
そして「会津藩が長岡藩と申しあわせて襲撃した」と官軍に印象付けようとし、襲撃部隊は退却するときに長岡藩の藩旗を捨て散らしていった。
さらには自称長岡藩士という人物が官軍に「開戦となれば恭順派2百人が官軍に内応する」と伝えたことで、官軍は長岡藩を軽く見るようになった。

継之助は慈眼寺に案内され、岩村を含めた官軍側の代表4人に「反論を統一し会津・桑名・米沢を説得するので待ってほしい」と嘆願した。
しかし、岩村は戦備を整えるための時間稼ぎと決め込み、嘆願書の受け取りを拒否した。

蹶起(けっき)

継之助は官軍と戦うことを決意し、長岡藩は奥羽列藩同盟に加盟した。

柏崎にいた山縣有朋は小千谷へ移動したが、岩村ら幹部が料亭のような食事をしていたことに激怒し膳部を蹴り上げた。

長岡藩は要所である榎峠と朝日山を官軍から奪取、官軍の反撃も撃退した。

越の山風

信濃川を渡河して攻めるという奇襲により、官軍は長岡城を占領し城下に火を放った。

継之助は退却し、加茂を本営として巻き返しを図った。

今町口

継之助は、長岡城から4里北にあり官軍の拠点となっていた今町を攻撃、官軍は退却した。

その頃、奥州では官軍が白河城を奪取、江戸では彰義隊が敗北して余った官軍の兵力は奥羽・北陸方面に送られた。

八町沖

継之助は、長岡の東北にある八町沖という大きな沼を渡って長岡城を奪い返す、という奇策を仕掛けた。

長岡城を奪い返すには多くの兵の犠牲が必要であり、成功したとしてもすぐに取り返されるかもしれない。
それでも、天下に宣伝するというところに政治的効果があり、西軍から東軍に寝返る藩があるかもしれないと継之助は考えていた。

継之助ら総勢690人が19時に出陣し、22時に八町沖に着き、全ての部隊が沼を渡って富島村に上陸したのは朝5時であった。
そして一斉に攻撃を開始、官軍は各地で退却した。

継之助が城下に入ると、大手通りには町民が群がり酒樽が積まれ、長岡兵と町民が長岡甚句を唄った。

しかし、その日の午後、長岡北部に集結した官軍が南下して凄まじい反撃を開始した。
継之助は北へ向かって駆け出したが、途中で流弾が左脚のすねを砕いた。
西軍は長岡城を猛攻、長岡軍は城も領土も放棄し会津まで退却することになった。
継之助は「置いてゆけ」と言ったものの担架で運ばれ、八十里越を超えて会津領只見村に入ったが、左脚は腐敗していた。
「八十里 こし抜け武士の 越す峠」と継之助は自分の姿を自嘲した。

その後、会津領塩沢村に入ると、継之助は従僕の松蔵を呼んで棺と自分を焼くための薪を準備させた。
そして、その翌日死去した。享年42歳であった。

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