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「英傑の日本史 西郷隆盛・維新編 / 井沢 元彦」の感想・あらすじ

2024/02/02
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81点

感想

全体の流れが理解しやすく、面白かった。

西郷隆盛というよりは、薩摩藩・島津家の歴史・朱子学が幕末に与えた影響、が中心に書かれていた。

「朱子学が悪影響を与えた」という著者の主張はやや極端な気がするが、間違ってはいないと思う。

島津家

島津家初代の惟宗忠久は、京の藤原氏の筆頭である近衛家の家来だった。

鎌倉時代初期、近衛家が持っていた荘園の島津荘の荘官に任命され、島津氏を名乗るようになった。

朱子学

朱子学とは、紀元前に始まった孔子孟子の儒教を中国の朱熹という学者が内容を厳格にしたものである。

朱子学が日中韓の歴史に与えた影響は極めて大きく、西郷隆盛も高杉晋作も朱子学を基本教養として学んでいた。

朱子学には士農工商という身分秩序があり、商人はモノづくりをせず、人が汗水たらして作ったものを動かして利ざやを稼ぐ「悪人」だとされている。

島津義久

戦国時代の島津家当主・島津義久は、龍造寺隆信を倒し大友宗麟をあと一歩のところまで追い詰めた。

しかし、大友宗麟への秀吉の援軍により形勢は逆転し、義久は降伏した。

島津義弘

関ヶ原の戦いの際、島津家は藩内の乱鎮圧のために大半の軍勢を国元に置き、京には義久の弟義弘が数百人の家臣とともに駐在していた。

義弘は家康から伏見城への応援を要請され駆けつけたが、鳥居元忠に入城を拒否されてしまった。

鳥居元忠に情報が伝達されていなかったのか、落城するのは確実なので義弘を巻き添えにしたくなかったのか、どちらなのかは謎である。

やむなく義弘は西軍についたが、三成からの参戦要請を拒否し中立を保ち、戦いが終わってから退却した。

武士と朱子学

家康は武士のモラルとして朱子学を採用した。

信長が光秀に殺されたり、その後秀吉が織田家を乗っ取ったりするのを目の当たりにした家康にとって、忠孝(主君と親への従順)を重んじる朱子学は非常に都合がよかったのである。

それは諸大名にとっても都合がよかったこともあり、江戸時代中ごろには朱子学が武士の基本教養となり常識となった。

田沼意次の改革

江戸時代の三大改革は農業重視のため、米が増産されると米の価値が下がり、米で給料をもらっている武士は困窮化していった。

田沼意次の改革は、商売を盛んにし海外貿易を再開するべきという現実的なものであったが江戸の三大改革には含まれていない。

なぜなら、朱子学では最も卑しいとされる「商人」のやることだからである。

島津重豪

島津重豪は西洋の科学技術や医学に関心を持った賢侯であったが、豪快で派手好きだったため薩摩藩に莫大な借金を作った。

重豪が隠居し息子の斉信が後を継ぐと、斉信は朱子学の信奉者だったため重豪とは正反対の政策を行った。

そのため、重豪は斉信を隠居させ孫の斉興を藩主にさせた。

しかし、斉興もガチガチの朱子学信者であったため、重豪はひ孫の斉彬を自分で教育した。

それが後の斉興と斉彬の対立につながった。

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