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「戦国夜話 / 本郷 和人」の感想・あらすじ

2024/02/02
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64点

感想

内容が深すぎて面白くなかった。

主な内容

  • 細川幽斎は細川忠興(妻はガラシャ)の父。
    足利義輝に仕えていたが信長の実力が上と判断、信長に臣従し明智光秀傘下に入る。
    本能寺の変が起こると出家し、幽斎(それまでは藤孝)を名乗り忠興に家督を譲った。
  • 毛利輝元は大阪冬の陣で徳川方として参陣した。
    万が一に豊臣方が勝利したときに備えるつもりだったのか、内藤元盛という武士を軍資金と兵糧付きで大阪城に入城させた。
    夏の陣の後、元盛は捕縛されたが、自分の行動は個人的なものであり主家の毛利家とは関係ない、と言い張った。
    幕府は毛利の陰謀を立証することができずに、元盛は自刃。
    その後、機密を漏らされたらたいへんだと、輝元らは元盛の2人の息子に自刃を命じた。
    この事件の顛末は、なんと萩藩が史料に残している。
  • 細川ガラシャはキリスト教徒だったから自害はしていないのではないか。
    自らではなく家臣が介錯したから自害ではない、ってそれは自害と一緒じゃん。
    夫の細川忠興に死を強要された、それが著者の解釈。
  • 前田利家の没後、家康が前田家の謀反を言い立てると、利家の妻まつは徳川に刃向かうべからずと説いて家中をまとめ、自らが人質となり江戸に下った。
    上杉家は前田家と異なり家康の挑発に乗って事態は関ヶ原の戦いへと進み、結果的に上杉家は所領を大幅に削られた。
    まつの判断は実に正しかったといえる。
  • 家康の側近本田正信は死去する際、嫡子の正純に遺言を残したという。
    「私が死んだら上様は加増してやるとおっしゃるだろう。3万石までは謹んでお受けせよ。だがそれ以上の領地を頂戴すると、みなの反感を買って家を危うくする。必ず辞退するように。」
    ところが正純は栄進し、宇都宮15万5千石という大封を得た。
    そして父の予見通りに周囲に憎まれ、失脚して家をつぶしてしまった。
  • 本田正信の子孫は加賀で繁栄した。
    本多家5万石の初代は正信の次男政重。
    政重は大谷吉嗣の家臣になったあと、宇喜多秀家に仕え、関ヶ原の戦いでは宇喜多軍として奮戦した。
    その後、しばらく隠棲していたが、短い間福島正則に仕えた後に前田利長になんと3万石で召し抱えられた。
  • 1603年、本田政重の旧主・宇喜多秀家が潜伏先の島津家から家康に引き渡された。
    これを契機に政重は加賀を離れた。
    秀家の正妻は前田利家の娘であり、前田家と宇喜多家は繋がりがあった。
    秀家の重臣だった自分が前田家にいるのはまずい、という配慮からか、浪人になった政重に直江兼続が婿養子に迎えたいと望み、政重は兼続の娘・お松を娶り、兼続の養子となった。
    お松は病死したが、兼続は弟の大国実頼の娘・お虎を養女にし政重に嫁がせた。
    1611年に政重は上杉家を離れ、翌年に前田家に帰参した。
    兼続は養子の政重に直江家を継がせるつもりはなかったのではないか。
    本多正信と関係を密にするために政重を迎え入れたが、飼い殺しにはできない。
    そのうちに、新豊臣の空気が残り徳幕閣とのパイプを手に入れたい前田家と話がまとまった。
    お虎も一緒に加賀へ行ったが、上杉家・直江家に仕えていた侍たちが政重を頼って金沢に赴いた。
    これはうまい人員整理である。
    関ケ原で領地が4分の1になった上杉家だが、兼続はリストラをしなかった。
    だから、こういうかたちで転職が実現できれば願ったり叶ったり。

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