歴史・小説・スポーツ・実用書など、趣味で読んだ本の評価・感想を紹介するブログです。

「NHK歴史秘話ヒストリア 第2章<5>明治時代~昭和編 / NHK「歴史秘話ヒストリア」制作班」の感想・あらすじ

2024/02/03
cocorobooks_336_280_01
この記事を書いている人 - WRITER -

点数

66点

感想

全体的にあまりおもしろくなかった。

小林多喜二、井上円了、が少し面白く、残りはたいした内容ではなかった。

小林多喜二は拷問により死んだ、井上円了は哲学館・後の東洋大学を作った、というのは初めて知った。

小林多喜二

1903年秋田生まれ小樽育ち。
エリート校である小樽高等商学校を卒業後北海道拓殖銀行に就職。

1929年に強制労働を題材にした小説「蟹工船」を発表、大反響となり3万5千部を売り上げた。

1930年、労働運動などが原因で職場を解雇され上京するも、治安維持法違反で逮捕された。
7ヶ月後に釈放されると、当時は非合法だった日本共産党に入党。

1933年2月に小樽の労働者を描いた小説「改造」を発表、その3日後に死亡が発表された。
警察は死因を心臓麻痺としたが、遺体には拷問の跡があった。

井上円了

1858年長岡生まれ。
東京大学文学部卒業後、全国で流行していたこっくりさんを学術的に解明しようした。
そして、感受性が強く物事を信じやすい人の時ほど、蓋が動くことをつきとめた。

1887年に哲学館を創設、妖怪や怪奇現象を解き明かそうとする妖怪学を講義に取り入れた。
講義は次のようなものであった。
「火の玉が霊魂であるはずがない。もしそうなら数百万の火の玉があらわれるはずである。火の玉の原因は、地中から出る天然ガスが発火したものだ」
「全国民4000万人が10日に1回夢を見たら1年で14億回になる。それだけあれば現実になる夢もあるだろう。現実になった場合、強い印象が残り、吹聴して広め、噂にもなる。それであたかも正夢が存在すると思い込んでしまうのだ」
原因が自然現象なら「仮怪」、偶然・見間違いなどなら「誤怪」、人による偽りなら「偽怪」、それ以外の本当の不思議を「真怪」と分類した。

1905年、哲学館を後進に委ね、日本全国で講演を行い哲学(=考えること・学ぶこと)の必要性を語った。

1919年、公演先の旧満州大連で死去。享年61。

津田梅子

1864年生まれ、1871年に新政府によるアメリカ使節団に参加。
アメリカ人夫妻の家にホームステイし、現地の学校に入学。

1882年に帰国したときには日本語を忘れていた。
華族女学校の教師となるも24歳のときに再留学、1892年に帰国し教師に復帰。

1989年にアメリカで行われたバンコク婦人連合会では、ヘレン・ケラーやナイチンゲールと出会った。
1900年に女子英学塾を設立、梅子の授業はスパルタだったという。

1923年の関東大震災で校舎は全焼、1929年に梅子は死去した。享年64。
1931年に校舎が再建され、1948年に津田塾大学となった。

西郷隆盛

弟の西郷従道は鳥羽伏見の戦いで活躍、維新後はヨーロッパへ留学した。
西南戦争では、従道は兄が積極的に関わっていないと見ていて、早く戦争を終わらせようと尽力した。
従道はその後、海軍大臣や内務大臣を歴任した。

嘉納治五郎

1860年生まれ、開成学校(のちの東京大学)で学んでいた17歳のときに柔術を習う。
柔術を理論的に分析し、整骨の解説書、相撲、レスリングなどを研究し、柔術から危険な技を無くした柔道を創った。

1882年、上野に講道館を開くと、柔道だけでなく英語や政治学も教えた。
その後、講道館を続けるための収入を得るために学習院の教授となると、そこでも柔道を導入した。

1893年、教員養成のための高等師範学校の校長に任命された。

1903年に弟子の山下義韶が柔道を広めるために渡米、護身術としてヨーロッパにも広がった。

1909年に治五郎はIOC委員に就任、1912年に日本人2名が初めてオリンピックに参加した。

1936年、オリンピック開催地を決めるIOC総会でスピーチを行い、直後の投票で東京開催が決定した。

1938年、肺炎のため死去。享年79。
死後、戦争のためオリンピック開催権は返上された。

竹下夢二

1884年、現在の岡山県瀬戸内市に生まれる。
16歳で上京し、実業学校に入学。
20歳のときに雑誌のイラスト書きの仕事を得る。

2歳年上の未亡人・岸他万喜に一目惚れし結婚、他万喜を描き続けた。
1909年に「夢二画集 春の巻」がベストセラーとなる。
美人画は夢二式と呼ばれ、若い女性たちに人気となった。

30歳のときに、夢二のファンだという18歳の笠井彦乃と恋におち、京都で暮らし始めた。
彦乃が結核で倒れると、夢二が代表作「黒船屋」を完成させた翌年、彦乃は死去した。

1931年、アメリカとヨーロッパに長期滞在するも結核を患い、ドイツの美術学校で日本画を教えるもヒトラーによる他文化排除による帰国。
その1年後に49歳で死去。

【新しい記事】

【古い記事】

この記事を書いている人 - WRITER -

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 上尾市民による書評ブログ , 2020 All Rights Reserved.