「NHK歴史秘話ヒストリア 第3章<5>明治時代~昭和編 / NHK「歴史秘話ヒストリア」制作班」の感想・あらすじ
点数
74点
感想
荻野吟子、グラバー邸、大山捨松、太宰治、クラーク博士、宮武外骨、の順で面白かった。
荻野吟子、大山捨松、グラバーの息子のことは今まで知らなかった。
荻野吟子はせっかく苦労して女医になったのに、5年で診療所をやめてしまったのがもったいない。
目標が出来たら、そこに向って全力で行動する人だったのだと思う。
倉場富三郎に晩年が可哀想。
荻野吟子
1851年熊谷で生まれる。
18歳で嫁ぐも淋病を患い離縁となり、東京で治療を受ける。
多くの女性患者が男性医師に見られることを嫌って亡くなっていることを知り、当時は1人もいなかった女性医師になることを決意。
上京して10年以上勉強し、いざ医術開業試験を受験しようとしたところ、女性だからという理由で拒否されてしまう。
交渉が2年に及んだ頃、奈良時代の法律に女医に関する記述を見つけ、それを役所に提示しようやく受験が認められた。
1885年に合格し日本の女医第1号となった吟子は、東京本郷に診療所を開いた。
1890年、13歳年下のクリスチャン志方之善と結婚、診療所をたたんで北海道開拓へ参加する。
しかし、開墾がすすんでいなかったため土地を没収され、せなた町に診療所を開いた。
63歳で死去。
グラバー邸
1871年、トーマス・グラバーが32歳のときに日本人女性との間に生まれたのが倉場富三郎。
1884年、グラバー親子はグラバー邸を人に貸して東京に引越した。
富三郎は学習院を中退し、1893年に長崎へ戻りイギリス系商社の社員として働いた。
1909年、屋敷を継いでほしいという父の願いを受け入れ、グラバー邸に住み始めた。
1911年にグラバーが73歳で死去。
1937年に日中戦争が始まると、長崎で戦艦武蔵の建造が始まったが、小高い丘の上にあるグラバー邸から一望できてしまうため富三郎は屋敷から出ていくこととなった。
1943年に妻のワカが病死、敵国イギリス人の子である富三郎はスパイ行為を疑われ憲兵に監視されていた。
1945年に長崎に原爆が落とされると、その17日後に富三郎は自殺した。
74歳だった。
大山捨松
1860年に会津藩で生まれる。
11歳で新政府の女子留学生に応募。
「国のために捨てたつもりで帰りを待っている」という思いを込めて「捨松」という名前がこのときに付けられた。
留学生は5人いたが2人は半年で脱落、残ったのは捨松と永井繁子と津田梅子だった。
高校・大学・看護学校で学び、22歳で帰国した後は女子のための学校設立の活動を行った。
陸軍トップで後妻を探していた大山巌からプロポーズされ結婚。
鹿鳴館でバザーを開いて資金を集め、日本初の看護学校を設立した。
バザーでは3日で8,000円、今の価値で1億円ものお金が集まった。
その後、津田梅子が設立した女子英学塾の顧問として資金集めに奔走、のちに津田塾大学へと発展した。
59歳で死去。