「坂の上の雲3 / 司馬遼太郎」の感想・あらすじ
点数
77点
感想
海軍による旅順艦隊の封じ込め、陸軍の旅順要塞と遼陽での戦闘、について書かれていた。
二〇三高地を占領して旅順艦隊を砲撃するべきだったところを、陸軍幹部の無能さにより旅順要塞を正面から攻撃して大失敗に終わった、というのが主な内容であった。
陸軍、特に乃木軍の伊地知幸介の無能さが印象に残った。
あらすじ
砲火
- 児玉源太郎は「緒戦に勝って世界を驚倒させねば、外債募集がどうにもならぬ」とたえず言っていた。
- ロシアは日本を甘くみていた。海軍部長は「日本陸軍が上陸することは不可能である」と言っていた。
- クロパトキンの作戦は、極東に兵が終結するまでは撤退して時間を稼ぎ、ハルピンで衰弱した日本軍を大兵力で壊滅するというものであった。
- ウィッテとクロパトキンは、極東総督アレクセーエフが横から命令を出してくることを懸念していた。
- 山本権兵衛はロシアを仮想敵として、10年かけて海軍を作り上げた。
- ロシアには極東艦隊とバルチック艦隊があるため、山本の戦略は2つが合体しないようにまず極東艦隊を沈めるというものであった。
- 旅順軍港は鉄壁であるため「極東艦隊を港外に誘い出して撃つ。もし出てこなかったら陸軍が旅順要塞を攻撃し、港口に汽船を沈めて蓋をする」というのが真之の考えであった。
- 明治37年2月4日に断交が決定すると、出撃命令を出すために軍令部参謀山下源太郎が汽車で東京から連合艦隊のいる佐世保へ向かった。
- 2月5日、外務省はペテルブルグにいる栗野慎一郎公使に打電し、公文をロシア政府に渡すよう命じた。翌6日には外相小村寿太郎が駐日公使ローゼンに国交断絶を宣言した。
- 5日夜、山下は旗艦三笠で封緘命令(指定の時間・場所で封を切る)を東郷に渡した。山本からの命令は「ロシア艦隊を全滅せよ。連合艦隊は黄海方面、第三艦隊は朝鮮南端を占領せよ」というものであった。
- 6日9時、連合艦隊は佐世保から出撃した。この時、巡洋艦千代田だけは仁川港にいたが、そこにはロシアの軍艦ワリャーグとコレーツもいた。千代田は港外に脱出し瓜生艦隊と合流しロシア艦を攻撃、ワリャーグは自沈、コレーツは火薬庫に点火して爆沈した。ロシアの死傷者は223人、日本は0人であった。
旅順口
- 極東艦隊が旅順港から出てこないため「駆逐艦に水雷を抱かせて飛び込ませる」というのが軍令部の戦術であった。
- 8日18時、連合艦隊主力は旅順口近くの洋上に達し、駆逐隊が旅順へ向かった。
- 真之はこの奇襲で敵軍艦を5隻は沈めたいと思っていたが、1隻も沈めることはできず3隻に損傷を与えただけに終わった。
- 9日朝、東郷は決戦を挑むために主力艦隊を率いて旅順港に向かった。ロシア海軍は港内に引きこもりバルチック艦隊の合流を待ったが、このことは旅順艦隊の士気を低下させた。
- 旅順口に古船を沈める閉塞作戦は、東郷の参謀のひとりである有馬良橘中佐と広瀬武夫が開戦前から主張していた。
- 真之は「旅順要塞はサンチアゴ港の千倍の砲力を持っているし、港内にいるのはスペイン艦隊ではなくロシアの大艦隊だ」と反対していた。
- 2月18日、閉塞作戦が命令され、沈める汽船5隻と人員67人が選ばれた。
- 23日深夜、旅順砲台から攻撃を受け、予定の位置で自沈できたのは広瀬の座乗した報告丸1隻のみだった。1回目の閉塞作戦は失敗に終わったが、損害が軽微だったため4隻の汽船による2回目の閉塞作成が実行された。
- 26日18時半に4隻の汽船は出発、27日2時に単縦陣をつくった。
- 有馬の1番船は前回と同様、探照燈にあてられつづけて目がくらみ港口から外れた場所で自沈してしまった、
- 広瀬の2番福井丸はロシアの魚雷が命中し大爆発、船底が裂けて沈没しはじめたため広瀬らはボートで脱出した。
- その後、ボートから広瀬が消えた。砲弾が飛び抜けたとき、広瀬ごと持っていってしまったらしい。
陸軍
- 陸軍の戦略は「第一軍が満韓国境に布陣しているロシア軍を撃破し、第二軍が遼東半島に上陸・北進して第一軍と協同して敵主力と大会戦を行う」というものであった。
- 第一軍は3月8日に広島を出発、4月30日の鴨緑江での渡河戦では砲撃によりロシア軍を追い払い、その後九連城も攻め落とした。
- 第二軍である好古の騎兵旅団はまだ習志野にいたが、4月9日に動員令がくだり、5月18日に宇治港を出航した。
- 26日、第二軍は遼東半島にある金州・南山を攻めた。要塞化していたロシア軍による機関銃の猛射により多数の死傷者を出したが、何とか占領した。
- 30日、好古の騎兵旅団は偵察のために北方の敵地に出発、田家屯という場所で敵と衝突、火力に勝るロシア軍が優勢だった。
- 6月3日、砲兵部隊をつけてもらった好古は激戦の末勝利し、ロシア軍を退却させた。
マカロフ
- 海軍中将マカロフは老齢であったが、勇敢で部下から人気があった。
- マカロフは巡洋艦で度々旅順港を出て、日本を挑発していた。
- 真之は「敵が毎回同じコースで戻っている」という報告を受け、機械水雷を沈置させた。
- 沈置作業が終わった後、護衛していた日本の駆逐艦がロシアの駆逐艦ストラーシヌイを発見し攻撃、沈没させた。
- そこへロシアの一等巡洋艦バヤーンが現れたため、日本の駆逐艦4隻は退却した。
- その後、沖合にいた6隻の日本の巡洋艦がバヤーンに突撃、そこへマカロフの戦艦ペトロパウロウスクと9隻の駆逐艦がやってきた。
- 日本の誘いに乗りマカロフは外洋に出たが、すぐに全艦隊に退却を命じた。
- マカロフは習慣であった港口の掃海を忘れていたため、ペトロパウロウスクは触雷し大爆発を起こして沈没した。
- マカロフを含め630余人が亡くなった。
- 1ヶ月後、今度は日本艦隊に何隻かがロシアの沈置した触雷し沈没した。
黄塵
- 満州上陸後の戦闘がうまくいっていなかったため、陸軍は現地に高等司令部をつくり大山巌と児玉源太郎を東京から派遣した。
- 大山と児玉は7月10日に宇品を出港し、途中で連合艦隊の旗艦三笠で陸海軍首脳会議を開き、7月15日に大連港に着いた。
- 旅順に対しての陸軍の意識が甘いと感じていた真之は「旅順艦隊を軍港から外洋へ追い出すには、陸軍が要塞を陥落させるしかない」と陸軍に申し入れていた。
- 陸軍は旅順攻略用として乃木希典を司令官とした第三軍を創設し遼東半島に送った。
- 海軍は「標高203mの山を攻め落とせば、そこからを旅順艦隊を大砲で狙撃することができる」と献策していた。
- しかし、陸軍の第三軍参謀長の伊地知幸介は「陸軍には陸軍の方針がある」として、旅順要塞を正面から攻撃する戦法をとった。
- 8月10日、ウラジオストックへ行けという命令を受けた旅順艦隊司令長官ウィトゲフトは、全艦隊に出航を命じた。のちに黄海海戦と呼ばれる海戦の始まりである。
- 旅順艦隊も連合艦隊も砲撃により損害を受けた。東郷は敵が旅順に引き返すことを防ごうと陣形を変えたが、それにより旅順艦隊は逃げ去ってしまった。
- 東郷が追跡すると、ロシアのレトウィザンという戦艦が故障したことで旅順艦隊の速度が落ちたため、午後5時30分に追いついた。
- 激しい砲撃戦となり、旗艦三笠は大きな損傷を受けた。
- 午後6時37分、三笠の放った砲弾が旗艦ツェザレウィッチの司令塔付近に命中し大爆発を起こし、ウィトゲフトらを粉々に吹っ飛ばした。
- 旗艦がやられたことで旅順艦隊はどこへ行くべきか迷い、ドイツの租借地である膠州湾に逃げ込んだ艦もあったが、ドイツが中立国として取るべき行動として艦の武装を解除した。
- 結局夜になり、連合艦隊は敵を1隻も沈めることができなかった。
- 旅順艦隊は逃げ込んだ先で武装解除された艦もあるが、大部分は旅順に帰った。しかし、損傷が激しいため、艦砲は外して陸揚げされた。このことを知らない東郷は、封鎖作戦を続けた。
- 8月14日、ロシアの別働隊のような存在であったウラジオストックの艦隊を、上村彦之丞の第二艦隊が攻撃、殲滅した。
遼陽
- クロパトキンは遼陽決戦に備え、山野を加工して野戦築城し日本軍を待ち受けた。兵力はクロパトキン軍23万、日本軍14万であった。
- 日本陸軍は砲弾の準備を怠っていたため、攻勢に出ることが出来なかった。
- 好古の所属する奥軍(第二軍)と野津軍(第四軍)が正面からの遼陽攻撃を受け持ち、黒木軍(第一軍)は別働隊として動いた。
- 8月25日、奥軍が行動を開始、27日に鞍山站を攻めたが敵は既に後方の首山堡に下がっていた。
- 30日、奥軍と野津軍が首山堡への攻撃を開始、日本人が初めて経験する大会戦となった。敵味方合わせて八百余の大砲と三、四十万の小銃が火を噴いた。
- 好古は砲兵を伴い敵の右翼を攻撃、敵に大きな損害を与えた。
- 首山堡での激突は遼陽会戦で最も激しい戦いとなり、奥軍と野津軍は崩壊寸前だった。
- 黒木軍は仙台師団と小倉師団で構成された日本最強軍だった。日本軍の右翼にいた黒木軍は東部戦線を攻撃し突破、その後迂回し敵に気付かれないうちに太子河を渡った。
- 腹背を突かれたクロパトキンは、西部戦線では奥軍と野津軍に勝っていたにも関わらず退却し全戦力を黒木軍に向けた。これが敗因となった。
- 黒木軍は3,4倍の兵力を相手の猛攻に耐え、饅頭山という高地を占領した。するとクロパトキンは全軍を退却させた。遼陽会戦は両軍2万の死傷者を出した激闘であった。9月7日、陸軍総司令部は遼陽に入った。
- 日本が従軍記者や観戦武官を粗末に扱ったこともあり、世界に伝わったニュースは「ロシアが一時退却しただけで日本の勝利ではない」というものであり、日本公債の応募は激減した。
- 高橋是清はロンドンでヤコブ・シフというユダヤ人から公募の半分にあたる500万ポンドの融資を受けることに成功した。シフはロシアがユダヤ人を迫害しているため、日本が勝ってロシアで革命が起こることを願っていた。
- 日本の大本営は日露戦争をはじめるにあたって、ロシア内外の不平分子を扇動する任務を明石元二郎に命じ工作金として百万円という大金を渡した。明石はレーニンらと接触、ロシア国内では暴動が起き、帝政ロシアの要人たちは「適当な時期に戦争を終結させねば」という思いが強くなっていた。日本政府の狙い通りであった。
旅順
- 乃木軍は8月19日から第一回旅順総攻撃を行ったが、六日間で死傷者1万五千八百人という大失敗に終わった。
- 第二回総攻撃でも死傷者四千九百人を出したが、要塞に損害を与えることはできなかった。
- 乃木軍の失敗は、参謀長伊地知幸介が無能で頑固だったことが大きな原因であった。
- 海軍は二〇三高地を攻めるよう陸軍に何度も催促したが、伊地知は「海軍の干渉は受けぬ」と拒否した。
- 参謀本部次長の長岡外史は、大砲の技術者有坂成章に「二十八サンチ砲を旅順に送るべき」と提案された。
- 乃木軍は「そんなものは要らない」と返答した、それでも長岡は二十八サンチ砲を旅順に送った。
沙河
- クロパトキンのロシア軍は遼陽から奉天に退却したが、日本軍には砲弾がないため追撃できず、遼陽でひたすら砲弾の蓄積を待った。
- その間、ロシア軍はシベリア鉄道により本国軍隊が続々と送られてきた。
- 10月4日、ロシア軍は奉天から南下を開始、日本軍が攻撃に出るか守るか迷っていたが、ロシア軍はなぜか途中で南下を停止して陣地構築を始めた。東部兵団が遅れていたため待機させたという、クロパトキオンの大失態であった。
- 日本軍は戦線を横70kmに張って押し進めた。
- 10月9日、日本軍右翼の黒木軍は壊滅の危機まで追い込まれたが、児玉が中央の野津軍と左翼の奥軍にロシア軍を包囲させて敵を撃破した。
- ロシア軍は南下、日本軍は北上し、沙河で激突、8日から始まった戦闘はロシア軍が優勢に進めて13日に峠を越した。
- 会戦は18日頃に終息、死傷者は日本20497人、ロシア6万人以上、だった。