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「坂の上の雲1 / 司馬遼太郎」の感想・あらすじ

2024/08/08
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75点

感想

秋山兄弟と正岡子規が故郷の松山を出てから日清戦争が始まって威海衛の戦いで勝利するまで、の話であった。

秋山好古は騎馬、秋山真之は海軍、子規は肺結核のため療養、と3人が全く別の道を歩んで行った。

今後3人がどうなっていくのか、楽しみになる内容であった。

あらすじ

春や昔

  • 安政6年(1859年)、秋山信三郎好古は伊予松山藩の下級武士の家に生まれた。
  • 好古が10歳の時に明治維新が起こり、松山藩は佐幕藩であったため賠償金を支払うことになったことで財政難となり、秋山家の生活も苦しくなった。
  • 好古は明教館という藩校の小学部に入り、中学には行かずに銭湯で働いた。
  • 明治8年、大阪に学費がかからない師範学校が設立されたが、入学資格は19歳以上であった。
    そのため、16歳の好古は大阪で検定試験に合格し、小学校教員として4ヶ月働いた。
  • 年齢を偽って師範学校に合格、1年で卒業すると月30両という高給で名古屋師範学校に配属された。
  • 明治10年、名古屋に誘ってくれた同藩の先輩和久正辰に勧められ、東京にある士官学校に合格し入学した。

真之

  • 後の日露戦争ではロシアのコサック騎兵集団と海軍の主力艦隊が脅威であったが、秋山兄弟の兄好古が前者を、弟真行が後者を打ち破る要因となった。
  • 好古の9つ下の弟真之は腕白な悪ガキとして育ち、1つ上の正岡子規とは中学から大学予備門まで同級生だった。
  • 明治16年、子規が中学5年で中退して東京の大学予備門に入ることを目指して上京すると、真之も後を追うように上京した。

騎兵

  • 騎兵がどういうものなのかを理解しているものはほとんどいなかった。
    馬も馬格の小さい日本馬しかいなかったため、オーストラリアからメス馬6頭を輸入して交配させて育てていた。
  • 戦国時代までの騎馬武者は歩兵を従えていたが、本当の騎兵は源義経のように乗馬兵だけで隊を編成するものである。
  • 子規と真之は共立学校という予備校のような場所で英語を学んだ。
    教師は高橋是清であった。
  • 好古は旧旗本の佐久間家から離れを借りていた。
    そこの娘である多美は後年好古の妻となった。
  • 明治16年、25歳の好古は陸軍大学校入校を命ぜられ、外国人教師が来るまでの1年間は数学を学んだ。
  • 9月、子規と真之は大学予備門に合格した。

七変人

  • 真之は子規の下宿先に同宿することになった。
  • 子規は哲学に熱中していた。
    しかし、教科書が英語であったため、英語が苦手な子規は諦めた。
  • 子規には親友が6人いて(そのうちの1人は真之)、子規は七変人と称していた。
  • 友人が東京から江ノ島まで徒歩で無銭旅行に行った話を聞き、みんなで行くことになった。
    夜出発して翌日の昼の戸塚まで来たところで断念して汽車で帰った。
  • 真之は兄の好古に学費を頼っていたため、帝国大学への進学を諦めて大学予備門を辞めることを好古に相談した。
    そして、築地にある学費無用の海軍兵学校に合格し、明治19年12月に入学した。

海軍兵学校

  • 当時、陸軍はドイツ式、海軍はイギリス式の教育を受けていた。
  • 陸軍はドイツ陸軍参謀将校メッケル少佐により教育を受け、後の日露戦争勝利に繋がった。
  • 兵学校の真之は2年目で首席となり、マラソンも速かった。
  • 真之3年目の明治21年8月、兵学校は広島県江田島に移転した。
  • 夏の休暇中に真之は松山の実家へ帰省、久々に両親と対面した。
  • 好古は旧藩主久松家から「フランス留学中である20歳の当主定謨(さだこと)がフランスの陸軍士官学校に入るので、補導役としてフランスに行ってほしい」と依頼を受けた。
  • 好古はドイツ式の軍事学を学んでいたうえ、日本陸軍の体制もドイツ式に転換していたが、依頼を受け入れ明治20年7月に渡仏、留学は5年にも及んだ。

  • 明治23年1月、好古は発疹チフスにかかったが、医者嫌いのため医者に行かずに治した。
  • フランスの士官学校の老教官は「騎兵は天才戦略家のみが運用できるものであり、それは学校で教育して出来上がるものではない。
    中世以降ではジンギス汗、フレデリック大王、ナポレオン1世、モルトケの4人しかいない」「騎兵は誤った使い方をすると全滅してしまう。そのことは士官学校でも教え、教えられた将軍たちは運用を恐れるあまり温存したまま使わない。そのため、騎兵は天才がいないと国費を食う無用の長物となってしまう。」と語った。
    好古は「義経と信長も追加するべき」と答えた。
  • 好古の滞仏中に、日本陸軍がフランス式からドイツ式に切り替えるという公示が発せられた。
  • 明治22年正月、欧州視察でベルリンからパリに来た山県有朋に「馬術に関してはドイツ式には欠陥がありフランス式が優れている」と好古は進言した。

ほととぎす

  • 明治22年、子規は肺結核にかかり本郷にある旧松山藩の常磐会寄宿舎で寝込んでいた。
  • この頃、松山へ帰る人へ「ほととぎすともに聞かんと契りけり 血に啼(な)くわかれせんと知らねば」という惜別の歌を送った。
    子規(=ほととぎす)の号はこのときにできた。
  • 子規は明治20年頃からベースボールに熱中していた。
    野球・打者・走者などの野球用語は子規が翻訳したものである。
  • 明治22年7月、子規は療養のため松山へ帰った。
    子規の家は旧宅の近くへ移っていた。
    既に嫁いでいた妹のお律が看護してくれた。
  • 数日後、子規は江田島から帰郷した真之と再会した。
  • 真之は毎日水練用プールで泳いだ。
    ある日、陸軍の兵隊がルールを破って褌をせずに泳いでいたため、真之は濡れ手拭いでひっぱたいた。
    陸軍兵が警察に訴えると、真之の父である八十九(やそく)は警察へ行き科料50銭を払うことで解決させた。
  • 八十九は明治23年12月に永眠した。
    好古はまだフランスに滞在、真之は7月に海軍兵学校を卒業し少尉候補生として「比叡」乗組員になっていた。

軍艦

  • 真之が遠洋航海から帰ってきた明治24年7月、清の北洋艦隊提督である丁汝昌(ていじょしょう)が軍艦6隻を率いて横浜港に入ってきた。
    外交上の威圧を目的としていた。
  • 明治26年6月、真之は英国で完成した巡洋艦吉野の回航委員に任命され、10/5に英国を出発し翌年の3/6に呉の軍港についた。

日清戦争

  • 子規は、文学熱が他の寄宿生に悪影響を及ぼすとして寄宿舎を追い出されしまった。
  • 子規は東京大学国文学科に進んでいたが、明治25年に2度目の落第があり退学した。
  • 東京で子規の面倒を見てくれていた陸羯南(くがかつなん)に報告すると、羯南は自分が社長である新聞社「日本」に入り近くに引っ越してくるように勧めた。
  • さらに羯南は母と妹も呼ぶことを勧め、明治25年11月に2人は上京した。
  • 子規の月給は15円という安さであったが、数ヶ月で20円、やがて30円にあげてくれた。
  • 子規は「日本」に連載した「芭蕉雑談」で、芭蕉の偉大さを認めつつも「残した俳句千余種のうち上乗と称すべきは二百余種に過ぎない」と批評した。
  • 日清戦争の前年の明治26年、小村寿太郎は北京に赴任した。
    小村は清国での日本の位置の低さから「ひとつ、戦争でもぶっぱじめなきゃいかんな」と言っていた。
  • 明治27年2月、朝鮮で東学党の乱が起こると治安を維持できなくなった韓国政府は清国に援軍を要請した。
    日本は朝鮮での発言権が消え去ることを恐れ、6月の閣議で出兵が決定した。
  • 伊藤博文首相は戦争は避けるように指示していたが、参謀本部は開戦を前提に出兵を計画した。
    参謀次長の川上操六と外務大臣の陸奥宗光は「首相には一個旅団を派兵する、一個旅団の兵数は二千である」と伝えることにした。
    しかし、その裏では「二千は平時の編成だが、戦時編成では七、八千になる。首相はそこまでは気づかぬはずだ」と企んでいた。
  • 川上は伊藤に「兵数を抑えるように」と言われたが「閣下自身が閣議で出兵を裁断なさいました。あとは参謀総長の責任です」と返した。
  • 6月12日に先発部隊が仁川に上陸、7月29日の清軍陣地を猛攻し三千の兵を敗走させた。
  • 海上では7月25日に巡洋艦3隻が豊島(ほうとう)沖で清国海軍の2隻と接近、宣戦布告前だったため日本側は礼砲を撃ったが清国側は実弾を発射したため戦闘となった。
    浪速は清国陸軍兵を輸送している英国船を発見、艦長の東郷平八郎は「その船をすてよ」と信号で命じたが受け入れなかったため攻撃て敵船を沈めた。
    東郷の処置は国際法に従ったものであった。
  • 日清戦争時、真之は巡洋艦筑紫に乗っていた。
    当時、艦艇は各地で平時の勤務についていたが、連合艦隊として佐世保に集結した。
    司令長官は薩摩出身の伊東祐亨、勝海舟の神戸海軍操練所で海軍の技術を学んでいたが、正規の教育は受けていなかった。
    真之は日清戦争での伊東の戦術を批判している。
  • 9月17日、黄海で両国艦隊が遭遇、清国が砲弾を発射しても日本は三千メートルに近づくまで発砲しなかった。
    そして、接近してから発射、戦闘4時間半で清国艦隊は12隻のうち4隻が沈没、日本は1隻も撃沈されなかった。
  • 好古は明治24年の暮れにフランスから帰国、明治26年11月に騎兵第一大隊長となり、翌27年9月に東京を出発、10月24日に遼東半島に上陸した。
  • 第二軍司令官の大山巌は、好古から送られた旅順攻略の意見書によって計画をたて、攻撃開始は11月21日に決まった。
  • 好古は11月18日に宿営地を出発すると敵の大軍と遭遇、攻撃を試みるも諦め退却した。
  • 11月21日、計画通りに第二軍が攻撃、旅順要塞は陥落した。
    好古は主力の援護を務めた。

根岸

  • 戦争に興奮していた子規は、自分の新聞に戦いの俳句を載せた。
  • 子規は従軍記者として戦地に行きたいと陸羯南に頼んだが、病身のため受け入れられなかった。
  • その後、従軍記者が1人必要となり、子規の従軍が決定した。

威海衛

  • 「威海衛の戦い」は明治28年の正月から2月にかけて海陸両面の戦いであった。
  • 大本営は、陸軍が威海衛要塞を後ろから攻撃し伊東艦隊が港内の北洋艦隊に挑む、という方針を決定した。
  • 北洋艦隊が湾内に隠れて出てこなかったため伊東艦隊は魚雷で攻撃、丁汝昌の旗艦である定遠を撃破した。
  • 北洋艦隊は兵員の士気が低下し、降伏するように白刃で艦長を脅迫するようになった。
  • 1月24日、伊東は丁汝昌に降伏を勧告する文書を渡した。
  • 2月12日、白旗を掲げた軍艦が伊東が乗っている旗艦松島に「休戦を請う。砲台は献ずるので戦闘員と人民の生命は守ってほしい」という内容の返書を持ってきた。
    その夜、丁汝昌は服毒自殺した。
  • 2月24日、降伏訂約書に双方の代表が署名した。

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