「日本の戦後を知るための12人 / 池上 彰」の感想・あらすじ
2024/02/02
点数
88点
感想
12人も取り上げているので仕方がないが、1人に対する内容が短く感じた。
それでも、知らなかったことが多くとても面白かった。
堤清二さんと村上世彰さんが最も印象に残った。
特に堤清二さんは、クレディセゾン、サンシャイン60、パルコ、西友、ロフト、無印良品、リブロ、などをすべて生み出したというので、本当に優秀な人だったのだと思う。
田中角栄
- 総裁選など、選挙では大量のお金をばら撒いた。
- 右翼が反対する中、日中国交正常化のために北京を訪れた。実際の条約締結は6年後、右寄りの福田内閣の時。
- 愛人が2人いた。神楽坂芸者の辻和子さん、秘書の佐藤昭さん。辻さんとの間には2人の男子がいる。
江副浩正
- 就職、住宅、旅行、などの情報雑誌をビジネスにした。
- 政府の委員会に呼ばれるようになり、そこで得た情報を元に不動産で大儲けした。
- 未公開株の譲渡が賄賂とされ、有罪判決を受けた。
小泉純一郎
- 郵政改革の際、郵政事業は独立採算制だった。「郵政民営化で財政負担を減らせる」と言うと嘘になるので「国家公務員を減らせる」と言っていた。
中内功
- 戦地で何とか生きのび、復員後に父の薬局を継ぎ、薬以外も販売していった。
- 専売店でしか販売していなかった松下電器の製品を安売りしたため、ダイエー・松下戦争が勃発した。
- 郊外に広い駐車場を作ったイオングループに対し、駅前に出店し続けたダイエーは時代に取り残されていった。
- 土地価格が上がることを前提に全国展開していったため、バブルがはじけたことで経営状態が悪化し破綻した。
渡邉恒雄
- 東大の学生時代は共産党員だった。卒業後、当時はまだ発行部数が少なかった読売新聞に入社。
(読売新聞は、元警察官僚(虎ノ門事件で辞職)の正力松太郎によって部数を大きく伸ばした。) - 入社後は週刊読売に配属、その後政治部に配属され自民党の重鎮大野伴睦の番記者となった。
- 1959年、渡邉が日頃から付き合いのあった中曽根康弘を大野に薦めたことで、中曽根は科学技術用長官となった。その後、2人は密接な関係を保っていった。
- 中曽根が首相になると、渡邊の指示により記事が急激に保守的に変わっていった。
堤清二
- 父の堤康次郎は不動産開発で財を成した人で、衆議院議長も務めた。4人の女性との間に子供がいて、堤清二は3番目の妻の子、堤義明は未入籍の愛人の子。
- 父親から西武百貨店を任せられると、経営の才能を発揮した。
- サンシャイン60、セゾンカード、西友、パルコ、無印良品、ロフト、リブロなどを作った。
- 1988年、世界中に展開するインターコンチネンタルホテルズグループを多額の負債を抱えながら買収、これが命取りとなった。
- バブルがはじけると、借金返済のためにインターコンチやロフトなどをバラ売りし、セゾングループは解体された。
村上世彰と堀江貴文
- 村上世彰は東大を卒業すると通産省に就職、経営者が経理内容を理解していないこと、企業が儲けを内部保留として溜め込んで再投資していないこと、に驚いた。
- 独立後はファンドを設立。時価総額に比べて金融資産が多い会社を狙い、安い株価で買収して資産を売却し利益を得た。
- 東京スタイルという服飾メーカーは、内部保留が多く配当金が少なかった。株主総会で配当金20円を提案する会社に対して村上ファンドは500円を提案。他の株主も賛同してくれると見込んでいたが、企業がお付き合いで株主になっていたため、波風が立つのを嫌って否決された。
- 村上は「ニッポン放送という小さなラジオ局の下にフジテレビという巨大なテレビ局が置かれている」といういびつな関係に目をつけた。そして、堀江にニッポン放送株の購入を薦めた。
- フジテレビは鹿内信隆とその息子春雄によって牛耳られていた。春雄が若くして亡くなると、信孝は娘婿の宏明を迎え入れた。しかし、1992年の取締役会で宏明は解任され、鹿内家の持株比率を小さくするためにフジテレビは上場された。当時は子会社だけが上場することはできなかったため、ニッポン放送も上場された。結果として、経営的に危ういねじれ構造が生じた。
- 堀江はMSCBという株に転換できる社債をリーマン・ブラザーズに発行して調達した800億円でニッポン放送株を買い占めた。
- フジテレビは、新規に株を発行して味方になっている人に買ってもらった。(第三者割当株の増資)買い占めを防ぐための株発行は違法なため「湾岸スタジオ建設費用の調達」と大義名分を設けて実行した。
- 村上ファンドは、堀江がニッポン放送株を買い占めたことで株価が上がったところで持っていた株を売ったため莫大な利益を得た。これがインサイダー取引と判断されたが、そもそも自分から買えと持ちかけたのにインサイダー取引になるのか微妙なところである。
石原慎太郎
- 1956年「太陽の季節」で芥川賞を受賞。映画化された際に弟の裕次郎を脇役でデビューさせた。
- 1968年の参院選で当選、1972年の衆院選で当選、1975年の都知事選で落選、1989年の自民党総裁選で海部俊樹に敗れた。1995年に議員辞職し、1999年の都知事選で当選し2012年に辞職した。
- 銀行に外形標準課税(利益が出ていなくてもかかる税金)をかけようとした。都民からは支持たが、銀行側の提訴に敗れたため実現されなかった。
- 新銀行東京を設立し中小企業に対する無担保無保証融資を行うも莫大な赤字を出し都税が穴埋めに使われ、きらぼし銀行に吸収された。
池田大作と創価学会
- 戦争で兄を失い、平和を願うようになった。
- 創価学会の3代目会長となると、1964年に公明党を結党した。
- 1969年、創価学会を批判した本の出版差し止めを公明党から自民党幹事長の田中角栄に依頼した。田中から圧力を受けた著者が公表したことで大批判を受け、池田は謝罪に追い込まれた。
- 1977年、「池田の講演内容が傲慢である」と日蓮正宗の総本山である大石寺の怒りを買い、その後も何度か学会と宗門は対立した。
- 1993年、公明党は細川連立政権に参加。自民党は政教分離ができていないと公明党を非難していたが、1998年に一転して自民党機関紙で謝罪、その翌年には自自公連立政権が誕生した。
上皇陛下と上皇后・美智子さま
- 1993年、週刊文春と週刊新潮が美智子皇后バッシングを展開、心労から美智子皇后は倒れ声が出なくなってしまった。
- 雲仙普賢岳の噴火の際、避難所で被災者と膝をついて会話をした。そんなごく普通のことを一部の人たちは「天皇ともあろうお方が」「国民に愛されようとする必要はない」と批判した。