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「坂の上の雲4 / 司馬遼太郎」の感想・あらすじ

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点数

75点

感想

以下が主な内容だった。

  • バルチック艦隊が日本へ行くまでの大変な航海
  • 乃木軍がやっと二〇三高地を占領した
  • 好古は黒溝台の会戦でロシア軍の猛攻に耐えた

黒溝台の会戦はあまり面白くなく、退屈な内容に感じた。
ロシア軍は兵力では日本軍をかなり上回っていたが、いくつもミスが重なり自滅して負けた、という印象が残った。

あらすじ

旅順総攻撃

  • 乃木軍による明治37年(1904年)9月19日の第二回旅順総攻撃は失敗に終わり、さらに10月26日の攻撃も失敗に終わった。作戦当初からの死傷者は二万数千人となった。
  • バルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキーは事務能力に長けた単なる官僚であり、一度も実戦を経験したことがなかった。
  • 10月15日、バルチック艦隊はリバウ港を出港した。
    臆病なロジェストウェンスキーは「日本の駆逐艦や機雷がデンマーク海峡で待ち伏せしている」という妄想から、17日に海峡に差し掛かった時には合戦準備命令を出した。
  • 20日にデンマーク北端に投錨すると「艦隊のそばを通過する船舶に対して全砲口を向けよ」と命令した。
    各国商船が通過する中でのこの命令は狂気の沙汰だった。
  • 21日夜、工作艦から「日本の水雷戦隊に追跡されている」と無電があり、それを信じたロジェストウェンスキーは北海で英国漁船群を日本水雷艇と見て砲撃した。
  • 英国は激怒し海軍に臨戦準備を命じたが、フランスの仲介により戦争は回避された。
  • バルチック艦隊は英仏海峡を通過しスペインのヴィゴ湾に寄港した。
    艦隊は石炭を積み込もうとしたが、スペインの官憲がそれを禁じた。
    英国の圧力であった。
    結局5日間足止めされ、1隻400トンのみ積み込みを許可された。
  • 乃木軍は予備隊として内地に残してあった旭川の第七師団を旅順へ送るように要請し認められ、11月26日に第三次総攻撃を行うも、相変わらず正面攻撃にこだわり大失敗に終わった。

二〇三高地

  • 11月29日夜、児玉は乃木に代わりに第三軍の指揮するために旅順へ向かった。
    それは命令系統の破壊であり軍隊における最大の犯罪行為であったため、児玉は大山自筆の命令書を持って行った。
  • 乃木は27日に攻撃の力点を二〇三高地に変更していた。
    29,30日と激戦があり、30日22時には一時的に二〇三高地を占領した。
  • 30日深夜に頂上付近で戦闘があり、二〇三高地の東北角はロシア軍が奪い返した。
  • 児玉は途中駅で「二〇三高地が陥ちた」と報告を受け祝杯をあげたが、その後「奪還された」という報告を受けた。
  • 児玉が乃木軍司令部の建物に着くと、乃木は前線視察のため不在だった。
    児玉は伊地知に対して痛烈な批判を浴びせた。
  • 児玉は乃木と二〇三高地の北3キロ地点にある高崎山へ行き「第三軍の指揮権をわしに一時借用させてくれぬか」と伝えた。
    乃木は承諾した。
    児玉は乃木の名誉のために、大山の命令書を出さなかった。
  • 児玉は銃砲隊を二〇三高地の近くに移動させ、12月5日9時に砲撃を開始、14時には二〇三高地を占領した。
  • 児玉は山頂の将校に「旅順港は見おろせるか」と聞くと、将校は「見えます。各艦一望のうちにおさめることができます」と答えた。
  • 児玉は二十八サンチ榴弾砲で旅順港内の敵艦を射撃させ、数日でほとんどの敵艦を撃沈・破壊した。

海濤(かいとう=大きな波)

  • 戦艦セヴァストーポリだけは二〇三高地からの砲撃から生き延びた。
  • 敵の戦艦が一隻でも外洋に出たら日本の輸送が危機に陥るため、東郷艦隊は12月9日から16日まで水雷攻撃を行いセヴァストーポリを沈没させた。
  • 東郷と真之は汽車で乃木軍司令部へ向かった。
    東郷は乃木と2人だけで小屋に入ったため、小屋の中でどういう会話がおこなわれたかは誰にもわからない。
  • 東郷艦隊は呉と佐世保に帰った。
    真之は信濃町の好古宅で母お貞と兄嫁多美に挨拶した後、青山の新居に帰った。
  • 真之は家で毎日天井をながめ、バルチック艦隊に対する作戦「7段構えの戦法」を考えていた。
    • 済州島からウラジオストックを7段に分け、第1段は日本海近海で足の速い小艦艇で敵主力を襲撃する
    • 第2段はその翌日に全力で敵艦隊に正攻撃を仕掛ける
    • 第3段と5段は主力決戦後の日没後に小艦艇で魚雷戦を行う
    • 第4段と6段はその翌日に敵の残存勢力をウラジオストック港外まで追い詰め
    • 第7段はあらかじめウラジオストック港口に敷設しておく機雷で爆沈させる
  • バルチック艦隊は11月3日に同盟国フランスの植民地であるモロッコのタンジールで石炭を積んだ。
  • 乗組員の反乱、船の故障、フランスがイギリスに遠慮して非協力的になる、など難題が続いた。
  • 12日にダカール港に入り、12月1日にはガボンを出発、喜望峰を通過しマダガスカルに向かった。

水師営

  • 旅順要塞司令官ステッセルはのちに軍法会議で禁錮刑に処せられた。
    降伏時、まだ兵力も砲弾も残っていた。
  • ステッセル配下のコンドラチェンコ少将は優秀な作戦家であり、未完成だった旅順要塞を完成させた。
    ステッセルの下に位置するフォーク少将は嫉妬心が強く、コンドラチェンコを嫌っていた。
  • 二〇三高地が陥ちた後の12月7日、作成会議でコンドラチェンコは徹底防戦を主張し採用された。
    フォークは反対していた。
  • 12月15日、コンドラチェンコは前線視察中に日本軍の砲弾により戦死、28日には猛威をふるった二竜山堡塁が陥落、翌朝の会議では降伏案も出たが続戦が決まった。
  • ロシア軍はその後も日本軍に攻められ、明治38年(1905年)1月1日にステッセルは降伏を決意し日本軍に使者を送った。
    降伏文書は乃木軍司令部に届けられ、翌2日正午に水師営で開城談判を行い午後4時半に結了した。
  • バルチック艦隊はこの時期、マダガスカル島の東岸を北上していた。
    フランスが良港を貸すことを渋ったため、ノシベという寒村に向かった。
  • 1月5日、ステッセルの希望により水師営で乃木との会見が行われた。
    ステッセルは日本軍の工兵・砲兵を称賛し、乃木の2人の息子の戦死に追悼の意をのべた。
  • ステッセルが後に軍法会議で死刑を宣告されると、乃木はパリの津野田駐在武官に命乞い運動ができないか相談、やむをえない開城だったことを諸新聞に投稿、ステッセルは死刑から免れた。
  • バルチック艦隊はノシベに着いたが、本国からの連絡が何もないために2ヶ月も停泊することになった。
    ほとんどの士官は、旅順艦隊が全滅したのだから帰国するべきだと考えていた。
  • ノシベは気温が高く雨が多かったため、病人が続出した。
  • ロシア本国はバルチック艦隊を呼び戻すかどうか迷っていた。
    また、イギリスの無煙炭を購入しようとしたがうまくいかず、結局スピードの出ないドイツ産の有煙炭しか手に入らなかった。
  • ロシア本国はバルト海にあった老朽軍艦を掻き集めてノシベで待たせていた。
    しかし、それらはロジェストウェンスキーが艦隊編成時に起き捨てたものであり、戦力になるどころか足を引っ張るものであった。

黒溝台

  • 満州の冬の平均気温は零下二十度であり、10月の沙河での戦いの後に両軍は冬営に入った。
  • クロパトキンはロシア本国からの兵力補充を待ち、1月下旬に攻撃開始を予定していた。
    しかし、これは判断ミスであった。
    正面攻撃すれば日本軍に勝っていた筈だが、1月1日に旅順が陥落してしまった。
  • 児玉ら日本の満州軍総司令部は「厳冬期にロシアが攻めてくるはずがない」と考えていた。
    そのため、好古の騎兵部隊が収集した敵の動きを何度報告しても受け入れなかった。
  • 1月3日、ロシアは兵力1万のミシチェンコ中将の大騎兵団を奉天に集め、日本の補給基地である営口に向かわせた。好古はこの情報もキャッチして報告したが、総司令部は黙殺した。
  • ミシチェンコは1月9日から8日間かけて日本軍と戦いながら南下した。
    同じ頃、好古は長沼中佐率いる騎兵隊をロシア軍後方に向けて出発させ、他にもいくつかの機動部隊を放った。
  • 日本の挺身隊は全部で四百騎ほどであったが、ロシアそれを「日本軍騎兵一万が北行中」と誤認しクロパトキンはミシチェンコの3万の大軍を後方警戒のため北へ退却させてしまった。
    一方、日本の騎兵部隊は敵の倉庫や鉄橋などを爆破することに成功した。
  • 1月16日、ミシチェンコはクロパトキンに「日本軍陣地は最左翼が最も守りが薄い」と報告、ロシア軍の攻撃目標は最左翼の秋山支隊となった。
  • 日本軍左翼への攻撃は本国からやってきたグリッペンブルグ大将が行うことになったが、クロパトキンとグリッペンブルグは仲が悪くお互いの足の引っ張り合う関係であった。
  • 日本軍は敵の兵力を少なく見ていたため、秋山支隊は8千そこそこの兵力で守っていた。
    しかし、実際にはグリッペンブルグが率いる敵の兵力は10万以上の大軍団であった。
  • 25日、総司令部は立見尚文率いる兵力1万数千の第八師団を秋山支隊の救援に送った。
    立見は桑名藩の旧幕軍として戊辰戦争を戦い、北越戦争では長岡藩と連合して薩長軍を潰走させた人物である。
  • ロシア軍と日本軍は激突、この戦いは黒溝台会戦と呼ばれている。
  • グリッペンブルグの作戦は「沈旦堡と黒溝台を攻め落として南下し、日本軍を包囲する」というものであった。
  • 立見師団は参謀長の由比光衛が提案した「黒溝台をいったん捨て、敵が黒溝台から移動して空になったところでもう一度奪う」という戦法を採用した。
    しかし、敵は黒溝台に居座り陣地を構築してしまったため、作戦は裏目に出た。
  • 立見師団は大軍に包囲され沈旦堡にも敵が兵力を投入してきたため、総司令部は中央部に布陣していた野津軍と黒木軍の師団を左翼の救援に向かわせた。
  • 左翼を守る秋山支隊は機関銃のおかげてなんとか持ち堪えることができた。
  • 29日、死闘の末にロシア軍は退却、日本軍は黒溝台を奪い返すことに成功した。
    黒溝台会戦に参加した日本軍は53,800人、死傷者9,324人、ロシア軍は105,000人、死傷者11,743人であった。
  • ロシア軍が退却せずに戦闘を続けていたら日本軍は負けていたに違いないが、クロパトキンは「日本軍は中央を衝こうとしている」として28日に黒溝台からの退却命令を出していた。

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