「峠(中) / 司馬 遼太郎」の感想・あらすじ
点数
79点
感想
長岡藩の中で出世したが、まだ薩長と戦ってはいない。
下巻が楽しみ。
あらすじ
信濃川
慶応元年7月、藩主牧野忠恭の抜擢により外様吟味という地方官になった継之助は、3ヶ月後に郡奉行に栄進。
幕府直轄領から新領地となった山中村内の紛争の解決、藩の財政を潤すために賄賂を禁止、私利私欲に走る代官をクビにするなどした。
1年後には町奉行兼任となり、博打・妾・遊郭を禁止した。
風雲
慶応2年、第2次長州征伐での幕府の敗戦、将軍家茂の死去、孝明天皇の死去などがあり、継之助は「西日本は薩長のものになる」と予想した。
継之助は奉行を辞め江戸へ行き、長岡藩邸の宝物などを売り払い武器を購入した。
横浜ではファブルブランドから紹介されたスネルというプロシャの商人に、ガトリング砲を見せてもらった。
卯の年
長岡に戻った継之助は、年寄役という家老に準ずる政治職に任命された。
継之助は石高制の廃止し俸給制にしようと尽力する。
この時期に大政奉還が行われ、長岡藩では牧野忠恭が隠居し忠訓が藩主となった。
継之助は長岡藩は独立すべき、という持論を主張する。
さらに、藩主に京都へ行くことを提案し、家老となった継之助も同行することとなった。
藩旗
牧野忠訓の行列は江戸へ行き、幕府軍艦で大阪へ移動し京都へ入った。
継之助は御所に「薩長は幕府が攘夷を実行しないことを討幕の口実にする一方、自分たちは外国と通商し兵器を購入している。これは朝廷を欺くものである」という過激な内容の建白書を提出した。
公卿は受け取ったものの、その後は特に反応がなかった。
鳥羽伏見
幕府側が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしたことをきっかけに、鳥羽・伏見の戦いが始まった。
長岡藩は大阪で後方の警備を命じられた。
慶喜が大阪城を脱出して船で江戸へ帰ると、継之助らも大阪を去った。
江戸
継之助は江戸で福沢諭吉と会った。
2人とも「侍は滅び町人の世が来る」という考えを持っていた。
洋学者たちが「ドイツ連邦のような共和制になるべき」と考えるなか、福沢は「ドイツは連邦の不合理に悩んでいる。日本は立君制でなければならない。君は将軍ではなく天皇にするべき」と考えていた。
横浜往来
継之助は「江戸は越後よりも金の値段が安い」ということを知り、差額で儲けた。
また「江戸では戰が始まりそうという不安から大名屋敷に保有されていた米が売られ、米価が下落している」ということを知り、「米が取れず本土から移入に頼っているため常に米価が高い」という函館で江戸の米を売り儲けた。
幕府側諸藩の会合にて、継之助は「官軍に抗して死ぬ覚悟があるか」と問いたが、どの藩も意見などなく、他藩の顔色を見に来ているだけだった。
「これから江戸は荒れる。越後に帰るべき」という継之助の進言により、藩主は越後へ帰った。
江戸に残った継之助は、長岡藩の支藩である牧野家の分家を集め「官軍に仕えるべき。徳川家への節義よりも、藩を存続させることが絶対の正義である」と提言した。
これで牧野家を残すことができる、継之助は考えていた。