目次
点数
73点
感想
薩軍が出兵したが熊本城を落とせず、その周辺でも苦戦を強いられた、という内容だった。
薩軍は屈強だが戦略が何もなかったため敗れた、というのが何度も繰り返されていて印象に残った。
あらすじ
人馬
私学校本営では動員と編成が行われたが、最終決定者は桐野と篠原であり西郷ではなかった。
西南戦争の全期間を通じて、西郷は一度も陣頭に立たず、一度も作戦に口出ししなかった。
再び異人館
アーネスト・サトウとパークスは日記や報告書に以下のことを書いている。
- 西郷らの決起の表向きの理由は「西郷を暗殺しようとした者の処罰の要求」だが、それが真の動機とは到底信じられない
- 薩摩人が唱えている社会改革とはどういうことなのか、知りかねる
- 薩摩人は己の力と指導者の名声を過信していた。23年前なら江戸へ押し寄せることも可能だったが、今では不可能である
- 船舶がなければ実行不可能な目論見を立てるとは、自国について無知であり、破れかぶれの決起である
3月9日、サトウは会食した岩倉から「警官の鹿児島帰郷の目的は政情の視察だったが、彼らがしきりに視察と言ったために刺殺を間違えられたのであろう」と聞き「ばかげた話」と冷笑した。
サトウは勝海舟にも会っている。
勝は既に勝敗が決した時期であっても政府が発表する戦勝を信じず「報道は全てでたらめだ。政府は負ける」と言い放った。
東風動く
明治10年2月7日、大久保は伊藤博文に「陸軍省の弾薬も強奪された。暴挙は桐野以下の輩が決めたものにちがいない。例え西郷が不同意でも暴発は避けられない」という手紙を送った。
9日、大久保は大山県令の使者による「西郷は弾薬事件とは無関係である」という報告を信じた。
大山は県令としては大久保の部下であったが、薩摩では私学校の兵站係を務めていたため、政府の初動を遅らせようとしたのである。
15日、川路は大久保に「大山からの死者は工作者である」「大久保が慰撫のための勅使を島津久光と西郷に送ろうとしていることに反対である」という手紙を送った。
宣戦
2月9日、大山は川村に決裂の報告をした後、私学校本営で西郷にも決裂を報告したが西郷は何も言わなかった。
大山は2月4日に県庁にある現金を全て私学校に提供していた。
中原尚雄らが口供書をとられたのは5日からであることから、中原らの自供に憤って決起したのではなく、それ以前に決定済みであったことがわかる。
12日、西郷は陸軍大将として県令大山綱良に対して出兵の公式文書を提出、「政府に尋問するために出兵する」という布告文が鹿児島の各町に提示された。
大山は各府県、各鎮台、三条実美らに通知した。
籠城
谷干城は籠城を決めると、神風連の乱で斃れた兵の招魂祭を12,13日に催し、兵や城下の人々が参加した。
小倉の第十四連隊長だった乃木希典は、谷から命令を受け6日に一個中隊を長崎に、13日に二個中隊を久留米にそれぞれ派遣した。
乃木自身は作戦会議に参加するために13日に小倉城下を出発し、翌日熊本城に入った。
熊本城では15日から籠城のための工事をはじめ、火薬庫や道路を作ったり堀の橋を壊したりした。
19日、西郷からの使者が熊本県庁にやってきて「自分は東上する。貴下は兵隊を整列させて自分の指揮をうけよ」という谷への手紙を見せた。
対応した樺山資紀中佐は、まさか西郷か書いたものではあるまい、と怒声をあげ「鎮台下を通すわけには断じてまいらぬ、この旨、帰って復命せよ」と返した。
炎上
19日、熊本城の天守閣が炎上、1ヶ月分の米が灰になった。
原因を推測する様々な流説があったが、どれも証拠はなかった。
籠城戦では武家屋敷や民家が攻撃側の拠点として利用されるため、火の粉が烈風に乗り城下町を焼いたことが結果として籠城側に幸いした。
鎮台司令部はすぐに兵糧を補充し、20日には東京警視隊六百人が入場し、全部で三千五百人の防御線ができあがった。
肥後の野
20日、薩軍先鋒の別府晋介の二個大隊が熊本城外の川尻に達した。
鎮台側は21日の午前1時に五百人ほどの夜襲部隊を出し銃撃戦となったが、鎮台兵は切りかかってきた薩軍に怯えて逃げた。
桐野は人吉までは西郷に同行していたが、先行して21日の正午に別府晋介の駐屯地に着いた。
鎮台が仲間になってくれると思っていた桐野にとって、戦いとなったことは意外だった。
22日、池上四郎、村田新八、篠原国幹らの大隊が熊本城に接近すると鎮台側は砲台で攻撃、それでも薩軍は城の東北、東南、西から攻め込んだ。
二・二二の戦闘
22日の戦闘の薩軍には熊本県士族六百人も含まれており、池辺吉十郎に統御されていた学校党と宮崎八郎らの民権党が参加した。
22日午後、西郷は熊本城下に入った。
薩軍本営では軍議が開かれたが「これでいい」という篠原の説が採用された。
その後、野村忍介が「せっかくの精鋭を無駄な城攻めで死なせるばかりでよろしくない。小倉付近を抑えて政府軍の上陸を阻止するべきだ」と主張した。
最終的には西郷による「今日の強襲は中止する。一部で熊本城を囲み、一部で植木方面に進出し政府軍の南下を待つ」という折衷案が採用された。
福岡に戻っていた乃木は21日に熊本鎮台から「全員入城すべし」という命令を受け南下したが、22日に植木で薩軍の白刃突撃を受け連隊旗を奪われ退却した。
二十三日の木葉
木葉で一泊した乃木は、木葉に防御陣地を作ることにした。
一方、熊本城外の薩軍本営は23日午前1時に別動態を植木方面に出発させた。
そして8時半に木葉で両軍が遭遇し戦闘が始まり、激闘の末、乃木は退却した。
浅き春
23日、民権党の宮崎八郎は軍隊組織を作り、隊名を「協同隊」と決めた。
西へ敗走した乃木の連隊は、高瀬から北へ向かい石貫村の民家で死んだように眠った
菊池川
26日早朝、南関を本営としていた政府軍の第二旅団が、薩軍の野村忍介率いる五個小隊に攻撃を仕掛けたが、薩軍が圧倒して政府軍を潰走させた。
25日未明、乃木の連隊の一部が高瀬に入った、対岸の伊倉には熊本隊の本営があった。
高瀬の会戦
25日午後4時、薩軍が高瀬大橋を渡ると政府軍は側射した。
薩軍が白刃で殺到してくると、自軍の長所が射撃戦であることを認識している政府軍は北と西にある高台まで退き下がってから猛射しはじめた。
薩軍は高瀬を放棄し、菊池川を渡って退却した。
26,27日にも高瀬で戦いがあったが、どちらも政府軍が勝利した。
27日の戦いでは篠原・桐野・村田の3つの隊に分かれて高瀬に迫ったが、菊池川に到着するごとにばらばらに攻撃したため力が分散された、篠原隊が銃弾がなくなったという理由だけで離脱した、などがあり政府軍に敗れた。
この戦いで西郷の末弟である小兵衛が戦死した。
28日、桐野は熊本南郊の西郷の本営へ行き、高瀬での会戦について報告した。
野の光景
「民家が敵の砦にならないように放火して灰にしておく」というのは日本の合戦で用いられてきたやり方である。
薩軍には護民軍であるという意識があったためそれをしなかったが、政府軍はやたらと放火した。
この時期、官選の戸長に対する不満から、熊本の各地で農民一揆が続発した。