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「ナナメの夕暮れ / 若林 正恭」の感想・あらすじ

点数

88点

感想

とても面白かった。

同年代ということもあり共感できることが多かった。

著者はよく考えて生きているし、文章も上手だし、頭がいいと思う。
少し哲学的な内容にも感じられ、色々と考えさせられた。

自分の正解

幼稚園の時に、祖母や母親に「大人になったら何になりたいの?」と聞かれて、本当はバスの運転手になりたいのに「科学者」と答えていた。
そう答えると喜ぶからだ。

他人の正解に自分の言動を置きに行くことを続けると、自分の正解が段々わからなくなる。
例えばその場に人数が多い時に、どの人の正解に置きに行っていいかわからなくなり、おどおどするようになる。すると、段々と大勢の人がいる場を避けるようになる。
多様化された世の中では自分の中の正解に自信が持てなくなる。
なんとなく正しいことを言ってそうなツイッターや有名人のコメントに飛びついて楽をする。

自分の中の正解と誰かの正論は根本的に質が違うのだから、自分の意見は殺さなくてもいい。
自分の正直な意見は、いつかここぞという時に行動を大胆にしてくれる。

野心と欲望

表参道のブランド店でスウェットが9万9千円で売っていた。
高いお金を払って得られるものは、ファッションセンスに対する高評価だろうか?気持ちのいい肌触りだろうか?優越感だろうか?
それを買う人は個人的にはバガだと思うが、否定はしない。


ただ、自分にはやっぱり理解できない。
なぜ一流のものを手に入れることだけを欲望だと思うのだろうか?
安くてそこそこいいものに囲まれながら平凡な家庭を築き、気の合う仲間と楽しむ人生を目指すことは欲望ではないのだろうか?

それを実現することはとてつもない奇跡だし、難しいことだ。

一流のものに囲まれて生きることが幸福だと信じている人は、それを信じない人が信じられない。
自分と他人の価値観をセパレートすることができない。

「こういう生き方をしなくてはダメ」だと押し付けられるのが苦手だ。
「なぜそういう生き方をしたほうがいいのですか?」と聞くと「お前のためを思って」と言う。
そういう人は「〜のためを思って」という大義を隠れ蓑にして、自分より立場の弱い者から生き方を肯定する言葉をカツアゲしようとする。
これは別にバブル世代の批判ではない。

世代論なんて「人による」というワード一発で吹き飛んでしまうものだと僕は思っていて、あまり好きではない。
どの世代もすごい人はすごいし、ダメな人はダメだ。

娯楽が依存になってはいけない

アイドルのCDを何枚も買って、借金が膨らみ自己破産する人がいるらしい。
CDを買うことで仕事やプライベートへのモチベーションやエネルギーが増す。
それによって、投資した額よりも高い価値を得るならいいが、元本割れしてはダメだ。

占いも同じで、投資額を上回る価値がもたらされるならいいが、それに依存して壺やら石やらを買ってマイナスになってはいけない。

「娯楽」の範囲を超えて「依存」になって自分の生活の質が落ちたら台無しだ。

条件付きの愛

子どもはいい子でいないと、成績が良くないと、スポーツができないと「親に愛されない」というプレッシャーに常にさらされている。
その期待に応えられないことは愛されないことに繋がる。

親の期待を感じやすい性質を持っている子どもや、親の期待が過度な家庭の子どもはそういった重圧に常に晒されている。
その期待に応えられなくなった子どもは、ネガティブな結果でもって親の注意を引こうとするだろう。
人を殴る?原付を盗む?タトゥーを入れる?
たとえいい子で、成績が良くて、スポーツもできたとしても子どもは気づいている。
これを維持し続けないと愛されないのだ、と。ありのままの自分では愛されないのだ、と。

親はその子のありのままを愛してあげるべきだ。
でも、それは親にだって難しいことかもしれない。
だって、親自体がそのまた親の期待に応えないと愛されないというプレッシャーに苦しんできたのだから。
条件付きの愛しか知らないのだから。

おじさん化

「おっさんになってもそんなことやらねぇよ」と若い時に鼻で笑っていたことを全部やっていることに気づく。
ゴルフもそうだし、最近の曲は知らなくて聞くのは井上陽水や中島みゆきだし、アイドルの顔が同じに見える現象も始まっている。
観る番組はドキュメンタリーが多くなってきて、ビール片手に毎晩ニュース番組を見るようになった。

そういう習慣が突然日常に入り込んてきたことが、自分でも意外だ。
同世代の友達も同じようなことを言っていた。

自己否定の対処法は没頭すること

失恋で辛いのは、自分を責める時間ではないだろうか。
自己否定とまともに戦ったところで勝ち目はない。
経験上、自己否定は完治を目指すのではなくシャットアウトという対処療法が一番有効だ。

シャットアウトに効果を発揮するのは没頭だ。
仕事、趣味、友達と会う、アイドルの応援、ゲーム、筋トレ、恋など、とにかく楽しいと思えることで時間を埋めまくるのだ。
それを何ヶ月も続けて、いつの間にやら「あれ?そういえばあんまり考えなくなったな」という時が来ればしめたものだ。

他人を気にし過ぎる人

自分の気持ちを優先するか、相手の気持ちを探るか、これこそが人生の満足度を大きく左右するY字路ではないだろうか。

大事なのはどっちかではなく、バランスだ。
相手を気にし過ぎる人は病気になって、自分を優先し過ぎる人は自己中だと嫌われるだろう。
ただ、他人の気持ちばかり気にしている人は、そのカーソルを少しだけ自己中側に移動させるほうがいいのかもしれない。

持って生まれた性格もあるだろうが、親の顔色ばかり伺って子ども時代を過ごした人は、大人になっても他者の顔色をうかがう癖がつく。
しくじり先生の先生役のエピソードで何度か感じたことだ。

自分の気持ちを素直に言えるようになるための第一歩は「自分に自信を持つ」みたいなしょうもない絵空事ではない。
自分が臆病であると認めることである。
そして、それを大いに笑ってもらうことである。

自分の弱さと向き合う

しくじり先生の授業で一番心に残ったこと、それは「自分の弱さと向き合うことが一番難しい」ということである。

人はそれまでの栄光や幸運、高い地位や環境から突き落とされた後、自分自身の欠点や短所と向き合わざるをえなくなる。
人は自分の欠点と向き合うことからはよく逃げるが、他人の欠点はいとも簡単に指摘する。

では、しくじりを回避する一番の方法は何だと思ったかというと「耳が痛いことを言ってくれる信頼できる人を持つこと」である。
自分では自分のしくじりの種には気づけない、というのが約120回の授業を受けた僕の結論である。
そして、自分の弱さを直視することから逃げるために人はそういった苦言を呈してくれる人を自ら遠ざけるということも、よくする。

ナナメの殺し方

他人の目を気にする人は「おとなしくて奥手な人」などでは絶対にない。
心の中で他人をバカにしまくっている、正真正銘のクソ野郎なのである。
その筆頭が、何を隠そう私である。

学園祭で本気で取り組むこと、告白すること、何でも「みっともない」と片付けて、自分は参加しなかった。
そうやって他人がはしゃいでいる姿をバカにしていると、自分が我を忘れてはしゃぐことも恥ずかしくてできなくなってしまう。
それが「スタバでグランデと言えない」原因である。
誰かに「みっともない」と思われることが、怖くて仕方ないのである。

そうなると、自分が好きなことも、他人の目が気になって思いっきり楽しむことができなくなってしまう。
それが行き着き先は「あれ?生きてて全然楽しくない」である。

遊んでいても、仕事をしていても、他人のジャッジの目線が気になって、生きていること自体があまり楽しくなくなる。
他人への否定的な目線は、時間差で必ず自分に返ってきて、人生の楽しみを奪う。

ナナメの殺し方2

何をやっていても他人の目が気になって、生きていて全然楽しくない地獄にハマってしまうと人間はどうなってしまうのだろうか。

まず、朝起きるのが辛くなる。
「また今日も他人にジャッジされる1日が始まる」と思ってしまうからだ。そうなってしまうと、なんとか自分を肯定しようとして、他人や物事に対しての価値下げをさらに加速させてしまう。
地獄のスパイラルに突入だ。
そして、人前で愚痴や弱音を口にして「生きてても楽しくない」に他人を巻き込もうとするのである。
当然、健全な人はそういう人を避けるようになる。

では「生きてて全然楽しくない地獄」からはどう脱すればいいのか。
腐れ価値下げ野郎に、他人の肯定などという気高い行為は、到底できない芸当なのである。
まず最初にやるべきことは「ペンとノート」を買うことだ。
そして、何でもいいから、自分がやっていて楽しいことを徹底的に書き込む。

自分の好きなことがわかると、他人の好きなことも尊重できるようになる。
今までだったら「そんなベタな趣味恥ずかしい」とスカしていたのが、どういったところが魅力なのか真剣に耳を傾けるようになる。
「好きなことがある」ということは、それだけで朝起きる理由になる。
好きなことがあるということは「世界を肯定している」ことである、そしてそれは「世界が好き」ということにもなる。

他人を肯定する

自分の好きなことが見つかったら、次はノートに他人を肯定する文言を書き込んだ。
すると不思議なことに誰かを否定的に見てしまう癖が徐々に矯正されていった。
そうなると、自分を否定的に見てくる人が、自分が思っているほどこの世界にはいないような気がしてきた。

「だから物事に肯定的な人は、他人の目を気にせずに溌剌と生きているように見えるのか」
僕が子供の頃から喉から手が出るほど欲しかった「根拠のない自信」とは「おそらく自分は他人から肯定的に見られているだろう」というイメージのことだったのである。

世界の見え方は、どんな偉人であれ悪人であれ思い込みに他ならない。
肝心なのは「どう思い込むか」である。
まず自分が他人への否定的な目線をやめることで、自分を否定してくる人がこの世界からいなくなるのである。

悩むには体力が必要

おじさんになって体力がなくなると、悩むことができなくなる。
だから、おじさんは腹が出ていて、服がダサくて、親父ギャクを言うのだ。

近頃番組でスベっても気にしないのは、どうやらメンタルが強くなったのではなくて体力がなくなったからなのかもしれない。
ネガティブは、あり余る体力だ。

先日のライブ前、緊張していることに感謝の気持ちが芽生えた。
まだ緊張できるなら、俺は全然大丈夫だ。
昨日より今日の方が感覚的に若くなるということが、実際にあるんだなと驚いた。
それは、何歳になっても「昨日より伸びしろが広がることがある」という新発見だった
これが掴めたなら、過剰な自意識を連れ去ってくれる体力の減退も悪くはない。

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