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「坂の上の雲2 / 司馬遼太郎」の感想・あらすじ

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79点

感想

日本とロシアの開戦前の緊迫した時代が描かれていた。

日本はできる限りロシアに歩み寄ったが、ロシアはそれを聞き入れなかったため戦争になった、という話であった。

正岡子規が死んでしまった。

あらすじ

須磨の灯

  • 子規は4月に戦地へ出発したが、着いた頃には既に戦いはなくひと月ほど帰国した。
  • 帰国する船の中で喀血した。船は下関で停泊したあと神戸に着いた。
  • 神戸に着いてからも喀血があり神戸病院に2ヶ月入院した。高浜虚子が看病のために駆けつけた。
  • その後、1ヶ月須磨の保養院で療養し、8月に松山へ帰った。
  • 大学時代からの友人である夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任してきていたため、子規は漱石の下宿先の1階に住むことにした。
  • 休暇中に松山に帰ってきた真之は、子規の下宿先を訪れた。
  • 真之は子規に清との戦いについて「相手が弱すぎた。日本海軍は砲術がまずい。本来なら黄海海戦で敵を壊滅させなければならない。威海衛は余分だ」と語った。
  • 10月、子規は漱石と別れて東京へ向かった。途中で大阪と奈良に寄り、大和路の茶店で「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句を句帳にとどめた。

渡米

  • 好古は日清戦争の前年に35歳で結婚した。相手は少尉の頃に下宿していた佐久間家の長女多美である。
  • 日清戦争後、好古は陸軍乗馬学校長となった。騎兵の装備が充実し、師団・騎兵も増設された。
  • 明治30年、好古は本邦騎兵用法論という論文を軍当局に提出した。軍事論文としては歴史的な名論文とされた。
  • 明治29年11月、真之は海軍軍令部諜報課に配属となり、兵学校の2期上で親しかった広瀬武夫と一緒になった。広瀬はロシア語の勉強に熱心であった。
  • 明治30年、海軍省の海外派遣士官として英国へは財部彪(たからべ たけし)、フランスへは村上格一、ドイツへは林三子雄、アメリカへは秋山真之、ロシアには広瀬武夫が選ばれた。
  • この頃、子規は結核性の脊髄炎に苦しみ、根岸の自宅で寝たきりになっていた。
  • 真之は渡米前に子規の家を訪れ2人で会話をした。子規は真之の渡米後に新聞「日本」に「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」という俳句を載せた。
  • 真之は戦略と戦術を学ぶことだけを渡米の目的としていた。そして、世界的に知名度の高いマハン大佐への紹介状を書いてもらい自宅を訪れた。マハンは海軍戦術についての論文を数多く発表し、真之はそれらを読んでいた。
  • 真之はマハンに「過去の実例を徹底的に調べること。陸戦も調べること、海戦に応用することもできる。陸軍の兵書を読むこと。得た知識から自分なりに原理原則をうちたてること」と言われ、ワシントンの海軍省の書庫に毎日通い、夜は日本公使館の私室で寝るまで読書した。

米西戦争

  • 明治31年4月、アメリカはキューバの独立を武力で鎮圧していたスペインに対し兵力の撤退を求めた。これに対しスペインがアメリカに宣戦布告したことで米西戦争が始まった。
  • 真之は観戦武官として海戦を見学し、アメリカ艦隊がサンチアゴの港口に汽船を自沈させてスペイン艦隊を閉じ込める封鎖作戦を見た。後の日露戦争では、同じ作戦を旅順港に敵艦隊を閉じ込めるために使っている。
  • なおアメリカの封鎖作戦は、汽船が砲台の攻撃を受けたことで計画とは違う向きで沈んだため失敗に終わった。
  • アメリカは陸上から要塞を攻撃する作戦を実行した。その後、本国から「港を脱出せよ」という命令を受けたスペイン艦隊は、湾口から出たところをアメリカ艦隊に攻撃され撃沈または拿捕された。
  • 真之が書いた米西海戦のレポート「極秘諜報第百八号」は、海軍史上最も優秀な報告書といわれている。
  • 9月、小村寿太郎が駐米行使となった。小村は真之にインディアンのイロコワ族の話をした。17世紀、イギリスはインディアンの種族同士が抗争していることを利用し、イロコワ族に武器を与えた。その結果、180万人いたインディアンはいなくなってしまった。小村は「東アジアではシナの既得権益をロシアとフランスが狙っている。イギリスは東アジアにイロコワ族をみつけたい。それが日本である。我々は相手の魂胆を知りぬいたうえでイロコワにならざるをえない」と語った。

子規庵

  • 根岸にある家賃5円の子規の家を子規庵と呼ばれるようになった。
  • 子規庵には高浜虚子と河東碧梧桐が話や看病に来ていた。
  • 子規が所属している新聞「日本」は売れゆきがよくなかったが、個人で仲間を集めて出している雑誌「ホトトギス」はよく売れた。それでも社長の陸羯南は「ホトトギスではなく日本に書け」とは言わなかった。
  • 明治32年、真之はアメリカの艦隊勤務を7ヶ月体験、その年の暮れにイギリスの駐在武官となり渡英、翌33年5月に帰朝命令がきた。
  • 9月、漱石が英国留学へ出発した数日後、真之が子規庵を訪れた。真之は子規にアメリカやイギリスでの出来事などを語った。
  • 真之は子規の書いた俳句と短歌の革新論を読み、主題と論理の明晰さや戦闘精神に驚いた。そして「升さんは俳句と短歌の既成概念をひっくり返そうとしている。あしも、海軍とはこう、艦隊とはこう、作戦とはこう、という固定概念をひっくり返す」と言った。

列強

  • 日本が日清戦争により得た領土のうち、遼東半島はロシアが独仏を誘って「シナに返せ」と横やりを入れたため返還した。その2年後、ロシアは遼東半島、さらには満州に軍隊を入れて占領している。
  • 後の日露戦争時のロシア皇帝ニコライ2世は、皇太子だった明治24年に日本の大津で斬りつけられて重傷を負ったことがある。
  • 1861年、ロシアは「もし英国が対馬を占領したら、艦隊がウラジオストックから南下できなくなってしまう」ため対馬を占領した。結局、駐日英国公使がロシアに抗議したことで退去した。
  • ロシアの大蔵大臣ウィッテは「日本との戦争は害のみである」と主張していた。その理由は戦費がかかる、日本列島を得ても産物や資源がない、もし負けたら社会主義勢力により帝政は倒れるかもしれない、というものだった。
  • ウィッテは遼東半島の占領には反対していたが、ニコライ2世に却下された。
  • 明治33年、シナでは義和団が不清滅洋をスローガンに蜂起し首都北京を占領、清国政府もこれに協力し日本やドイツの公使が殺された。 諸外国は本国が遠いため、「日本が出兵すればいい」となり、大部分が日本兵である2万の連合軍が鎮圧した。好古も出征した。これを北清事変という。
  • 北清事変後、列強は清国に駐屯軍をおいた。好古は清国駐屯軍の司令官に任命された。
  • 明治36年、ドイツのウィルヘルム2世が「日本が対露開戦準備をしている」とニコライ2世に伝えたが、ニコライ2世は「戦争はありえない。なぜならば、私が戦争を欲しないから」と答えた。日本はロシアと戦争する能力などないから、戦争はあくまでロシアが決めるものである、ということであった。

十七夜

  • 真之は外国勤務から帰国後、横須賀にで海軍戦術の研究に熱中、世界中の兵書を読んだ。村上水軍の縦陣戦法に感銘を受けた。
  • 明治35年、海軍大学校に戦術講座が設けられると、真之は初代教官に選ばれた。演習では仮想敵をロシア艦隊としていた。
  • 真之が根岸の子規の家へ見舞いに行くと、子規は別人のように衰えていてた。その1ヶ月後の明治35年9月19日、子規は死んだ。空には十七夜の月が輝いていた。

権兵衛のこと

  • 日本はロシアの圧迫に対して海軍を強化する必要があった。それをやってのけたのは山本権兵衛である。権兵衛は戊辰戦争では薩摩の陸兵として従軍、その後築地の海軍兵学寮に入りドイツ軍艦で修行した。その後出世し明治24年、40歳で海軍大臣西郷従道に仕える海軍主事となった。日清戦争の前、権兵衛は老朽・無能幹部の大量首切りという大仕事をやってのけた。
  • 日清戦争があった明治28年の総歳出は9,160万円(軍事費は32%)だったが、翌29年は倍以上の2億円(軍事費は48%)であった。国民生活は苦しくなった。
  • 日清戦争時の日本海軍は戦艦を持っておらず汽船に大砲を積んでいただけだった。それが10年後の日露戦争時には巨大海軍を作り上げていた。これは奇跡である。
  • 西郷従道は海軍のことは何も知らなかったため権兵衛に全てを任せ、従道は莫大な海軍予算の成立に尽力した。

外交

  • ロシアの南下による重圧に対し、伊藤博文はロシアと同盟を結ぶことで回避しようとした。
  • 外務省は英国と同盟したかった。駐英公使の林董(ただす)が同盟締結のために尽力した。
  • この頃、伊藤内閣が瓦解し桂太郎が総理大臣になった。桂は日露同盟論者である伊藤を説得したが、「あの英国が日本のような国と対等の同盟を結ぶはずがない」と思っていた伊藤はロシアのサンクトペテルブルグへ行った。
  • 意外にもロシア側は伊藤を歓待した。ウィッテは「ロシアは朝鮮まで手を伸ばそうとしているが日本にまで侵略しようとしてはいない」と言った。伊藤は「日露親善はロシアが朝鮮から手を引く以外に道はない」と答えた。
  • ロシア外相のラムスドルフは、日露関係を軍事でなく外交で処理していこうという気持ちを伊藤に伝えた。伊藤は喜びロシアを離れ「日英同盟は見合わせよ。ロシアとの協商が可能のようである」と桂に電報を送った。
  • しかし、伊藤の打診に対するロシアからの回答がベルリンに届くと、その内容は「ロシアの満州での行動は自由である。日本の朝鮮での行動は制限された自由しか認めない」というものであった。伊藤の日露同盟は失敗した。
  • 明治35年1月30日、日英同盟は調印された。

風雲

  • 6年におよぶロシア駐在武官の任務をとかれて帰国した広瀬武夫は、海軍大学校教官の真之のもとを訪れロシア海軍の実態について話した。
  • 明治36年、45歳の好古は清国から帰国し習志野の騎兵第一旅団にいた。好古はロシア陸軍の大演習に招待され、9月4日に横浜から浦塩へ向かった。ロシアは世界一の陸軍を日本人に見せることで、ロシアには勝てないと思わせ、シベリア鉄道の完成までは戦いを避けることが狙いであった。
  • 市内を案内された好古は、相手を気にすることなくいくつかの軍事施設も見学した。
  • ニコリスクでは騎兵将校と酒を飲み交わし、騎兵や歩兵の演習を見学した。ロシア騎兵の強力さは想像以上であり、日本より優っていた。
  • 好古はさらに満州も見学したいと申し出た。ロシア側は拒否したが「あいさつだけ」と言って認めさせハバロフスクに移動し砲兵旅団などを見学した。
  • さらに「旅順へ行きたい」と言い軍事施設を見学し、10月3日に帰国した。
  • この頃、常備艦隊の参謀となった真之は季子という女性と結婚した。
  • 常備艦隊の司令長官には東郷平八郎が任命された。それまでの司令長官は日高壮之丞であったが、海軍大臣山本権兵衛は日高は命令に従わない恐れがある、東郷は大本営の方針に忠実であろう、として東郷を選択した。

開戦へ

  • 陸軍の児玉源太郎は渋沢栄一に戦費調達を依頼したが、最初は断られた。しかし、財界の実力者である近藤廉平が朝鮮で見たロシアの軍事力を渋沢に報告すると、渋沢も了承した。
  • 児玉は長州藩士であり、17歳で官軍の指揮官として戊辰戦争に参加、西南戦争では熊本鎮台の参謀であった。
  • 明治36年夏、日本政府はロシアとの最終交渉として「日本は朝鮮の権益、ロシアは満州に権益を持つ」という協商案を提出したが、ロシアは日本の案を黙殺し「朝鮮の北半分はロシアの勢力下とする」と回答した。
  • 明治37年2月4日、御前会議にて日本政府は対露開戦を決意した。伊藤は金子堅太郎に「ほどよいところで米国の仲介により停戦講和にもっていけるよう、工作に従事してもらいたい」と伝えた。

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